2016年10月11日

組織変更と役員交代について

 弊社はこの8月に有限会社から株式会社へ移行いたしました。
また、私、沼太英雄士(沼田弘)は、9月1日に代表取締役を退任いたしました。新代表は、長年、社員の筆頭として会社を支えてきてくれた菊池孝己(きくちこうき)です。
 HPの更新がまったく出来ておらず(社名も旧のままになっております)誠に申し訳ございません。さすがにこのままではまずいと思い、私のブログの方で先行して組織変更と役員交代について書かせていただきました。

 ここ数ヶ月は会社の変更に関わる作業と、プライベート面の変化に忙殺され、訳が分からない日々を送っておりました。まあ、オーナー経営者というのは普通の勤め人と比べ公と私の連動度合いが大きいですから仕方がないことではあります。

 私は今年55歳になりましたが、この年齢で会社の経営を従業員に委譲するケースはあまり多くないかもしれません。別に体調を崩したわけでもなく、経営が苦しいわけでもありません。そもそも経営が苦しい会社の代表など引き受けてくれる従業員はいないでしょう。

 実は、かなり以前から代表権を他者に渡す可能性は視野に入れておりました。2014年頃(このブログの更新頻度が鈍ったあたり)から、いよいよその可能性が現実味を帯び、そこに向け必死で取り組んできました。ブログの更新は忙しくて出来なかった、というよりは、この大仕事を終えるまではあえて書くまい、と心に決めていたためでもあります。

 言うまでもなく、会社の事業承継は本当にたいへんな仕事です。「後工程はお客様」という有名な言葉がありますが、後を任せるためには、まず「任せられる状態=やってもいいです、と言ってもらえる状態」を作らなければなりません。私の場合、そのために具体的に動き出してから今日まで約15年かかりました。自己流ではありますがデューデリジェンスを行い、様々な角度から会社の抱える問題点をあぶり出し、そのひとつひとつを解決してきたわけです。

 振り返れば気が遠くなるような作業でした。40歳代から50歳代半ばという知識・経験・体力のバランスが取れた時期だったからこそ乗り越えられたと思います。今からもう一度同じことをしろ、と言われたら、たぶん無理です。

 言葉にしたいこと、伝えたいことは山のようにありますが、やはりそこは節度を保つべきでしょう。もっともこのブログ自体、あまり節度を持って書かれてきたとは言えませんが・・・。

 ブログのことに触れたついでに、このブログを始める時に考えていたことについて最後に書かせてください。

 企業のHPで経営者やスタッフの方々がよくブログを書いておりますが、当時、私はそれらを読んでどこか納得いかないものを感じておりました。
 どのブログも、会社の経営は常に順調、社員も明るく働き甲斐を感じ、労使関係も良好、何の問題もなくただただハッピー・・・という内容ばかり。
 それってウソっぽくないですか?
 もっとも会社のHPのブログの目的は所詮広告宣伝なのでしょうから、いちいちそんなことに目くじらをたてることもないのでしょう。読む方だってそう思って読んでいるのでしょうから。
 しかし、私は受け入れられませんでした。そこに漂うあざとさが嫌でした。
 楽な仕事なんてありません。現実は甘いものではありません。それを真正面から受け止めて悩む様を正直に表現する方が信頼してもらえるのではないか、と考えました。そしてまた、無意味に明るく前向きな話は、時に人を落ち込ませます。真摯に生きる人々の共感は得られません。

 「屋根の上の散歩者」は会社のHPのブログとして、時に踏み込んではいけない領域にまで踏み込みました。ちょっと反省する部分もあります。齢の割に青っちょろいこと書いてるな、と思った方もいると思います。しかし、私は昨日、小田急線に乗って参宮橋を通過するあたりに突然人生の真理のひとつに気がつきました。それは「正しい生き方とは何か」という命題の答です。

 「正しい生き方」とは?
 それはおぎゃ〜と生まれてから死ぬまでの人生の過程で、それぞれの年代だけに与えられた特有の輝きや美徳をその年代を過ぎた後も保ち続け、かつ、それぞれの年代が持つ欠点をきちんと克服しながら年輪を重ねることです。例をあげれば、常識をわきまえた大人なのにふっとした瞬間に少女の頃の可憐さを垣間見せる女性、身も心も充実していながら、時に少年のような好奇心と青年のような正義感で行動する男性、といったところでしょうか。

 あっさり終わるつもりが長々と書いてしまいました。すみません、今日も節度が足りなかったかなあ・・・。

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2016年01月14日

リスク社会を生きる

 ブログにコメントが届いており、私自身、久しぶりに自分のブログをのぞいたのですが、1月に書いて投稿していなかった記事を見つけました。その時は内容に納得がいかずに投稿を止めていたのでしょうが今読んでみるとそんなに悪くもないようなので、若干手直しをしてUPします。以下、その記事です。


 2014年の7月頃、このブログで「リーダー受難の時代」と題する記事を書かせていただきました。
 その時、カミさんの知人からカミさん宛に「ダンナさんのこの間のブログなんだけど、具体的にどういうことなんでしょうか?」と問い合わせ(確か、フェイスブックか何かで)があったようです。
 そこで今回は、1年半ぶりにその続きを書かせていただきます。但し、具体的に書けるか?となるとちょっと自信ありません。あしからず。

 現代社会を生きる我々は今、あらたな課題に直面しています。それは、経済活動の中で生じるリスクをいかに分配するかという問題です。
 昔むかし、つまり世間がまだ貧しくモノが無かった時代は、人々はモノが手に入るだけで有り難かったはずです。よって、そのモノの品質にはあまりこだわらなかった。消費者は、仮に粗悪なモノを手にしたとしても、まあこんなモンだろう、という程度の不満で済ませていました。つまり、消費者はモノの品質に納得がいかなかったり、そのモノによって何らかの害を被ったとしても、その責任をモノの供給者に問うことは稀であったわけです。別の言い方をすれば、モノの生産から消費に至る一連の経済活動において生じるリスクの100%を、消費者が担っていた、ということです。

 それではモノがあふれる現代社会においてはどうか?

 現代の消費者は泣き寝入りなどしません。正当な要求であれば堂々と主張しますし、中にはとても正当とはいえない過剰な要求を供給者側に迫る人々、いわゆるモンスターと言われる人々も存在します。
 そうなると供給者側もそれぞれに自己防衛に入ります。
 小売り、流通、卸し、生産者、生産者への材料の供給者、その流通、卸し・・・と果てしなく続くラインの中で、それぞれがリスクを避ける行動を取ります。その過程である程度のリスク要因は排除できますが、何事にも完璧はありません。最後まで排除できずに残ったリスクは最終的に誰かが引き受けねばなりません。それを誰がどの程度引き受けるかを決めること=「リスク分配」がここで行われます。

 問題は、この配分が経済活動における力関係で決まってしまうことにあります。つまり、リスクは立場の弱い下請けの中小零細企業に集中します。

 そもそもリスクを負う、その責任を負う、とはどういうことでしょうか?
 リスクを負う以上、そのリスクの担い手にはある程度の責任負担能力が要求されます。したがってその能力のない人や企業に幾ら責任を押し付けても意味はありません。被害者は損害の賠償を求めているわけですから。
 現実は、生産から流通に至るチェーンの中で、一方からは力関係、もう一方からは責任負担能力はあるのか?という観点から、誰が責任負担(損害賠償)をするのか、が決まってしまいます。つまり「弱者の中にあって、かつそのリスクを担う能力のあるポジションにある人や企業」が真のリスク負担者になるわけです。

 私は、このポジションに該当する人や企業こそが本当の意味で社会を支えていると思ってます。本来であれば我々国民全体で守り大切にしていかなければならない「人」であり「企業」です。問題は言うまでもありません、そのような大切なところに、リスクが集中している点です。

 さらに、現代社会における経済活動は、モノの品質以外にもかつては存在しなかった(存在はしていても顕在化していなかった)様々がリスクを発生させました。それは環境リスクとコンプライアンス(労使問題も含む)リスクです。


 ここまでの私を論を読んだ方から、お前は実際にいい加減な仕事をしたりミスした人や企業を庇うのか?ヘマした奴が責任取らされて当たり前だろ、といった反論が想定されます。
 勿論、その反論は正論と思います。
 しかし、実務者の立場から一言言わせてください。

 今後、このような責任追及の厳格化が進めば、人々は、ヘマが問われる業務には誰もつかなくなります。つまり、我々の生活にとっていちばん大切な部分(モノをつくったり、建てたり、新しいモノ考案したりといった実業)の担い手が減り、リスクが少ない、手が汚れない業務ばかりに人が集中することになります。それでは世の中、成り立ちません。

 我々はここで原点に戻ってみてはどうでしょうか?
 私が思う原点とは、経済活動に関わる各々がそれなりのリスクを負う覚悟をする社会です。
 そこでは当然のことながら消費者もリスクを分担します。
 そもそも世の中は不完全なものであり、人はミスを犯すものであることを受け入れる社会とも言えますね。
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2015年12月04日

たかがネコ、の話ですが・・・

 ひっそりとブログを再開します。テーマはネコです。
 今年の夏のある夜、場所は盛岡某所、カミさんと歩いていると路地で二匹の子ネコに出会いました。実に人なつこいヤツらでちょっとだけ遊んでやりました。
 翌日の昼、気になってもう一度その場所に行ってみました。ヤツらはまだそこにいました。我々の姿に気がつくとすぐに歩み寄ってきます。カミさんがかがみこんで指をぐるぐる回すとその動きにあわせて首を回し、しまいにはお腹を向けて寝ころび、じゃれまくります。実に無邪気で楽しそうです。
 「お前なあ・・・」と私は心の中でつぶやきました。「お前ら、明日をも知れぬ身なのに、通りがかりの人間にちょっと遊んでもらったからって、よくそんなに楽しそうにしてられるな。分ってんのかよ、自分の状況」
 遊び疲れると、そばの水たまりの水をペロペロと舐めます。
 「こら、そんな汚い水飲んじゃだめだよ」とカミさんが子ネコに言います。
 しかし、暑い日に喉が渇けば、コイツらはこうして水たまりの水を飲むしかないでしょう。何とも切ない思いが私の胸を満たしました。かといってコイツらを保護する覚悟は私にはありません。複雑な思いのままその場を立ち去りました。
 ちょうどその頃、会社の引越しが終わり、新事務所の前には、私のジイさんが作った焼物の河童やタヌキや鬼の面やらが大量に飾られておりました。敷地が狭くなり置き場所がなくなったため、とりあえず事務所の前に飾っていたのです。それらが通りがかりの人の目に触れ、欲しいという方が何人もあらわれておりました。そこで私は決心しました。これらを売り、売ったお金をノラネコの保護団体に寄付しよう、と。
 事務所の前で売りまくり、カミさんはバザーに出店しその会場に持って行って売りました。
 ある程度お金が貯まり、先日、カミさんがそのお金を持って盛岡のあるノラネコ保護団体が主催するチャリティ会場に行き、売上金全額を寄付させていただきました。そしてその会場での話です。
 保護団体の方曰く「実は先日、・・・でネコを保護してきたんです」
 ・・・とは、夏に我々が子ネコと出会った場所でした。
 もしや、と思ったカミさんがそのネコたちの写真を見せてもらうと・・・
 そうです。ヤツらです。白木の清潔そうなフローリング、そこに敷かれたカーペットの上で、二匹のネコがカメラを見上げています。
 カミさんからその報告を受け、心底良かったと思う私がいました。
 それにしても何という偶然でしょう。そもそも私が寄付を思い立ったのはヤツらとの出会いがきっかけでした。可哀想だと同情するだけで何もしない自分が不甲斐なく、せめてもの罪滅ぼしと思って寄付したら、そこにヤツらがいたわけです。
 ちなみに、ヤツらの名前は、オスがヒロシ(なぜか私と同じ名前)でメスがシーラだそうです。二匹あわせてヒロシーラと呼ばれているらしい。相変わらず怖いモノ知らずというか人なつこい性格らしく、すぐに貰い手がつくでしょう、とのことでした。
 今日は雪でした。ヤツらが寒い思いをせずにいると思うとほっとします。
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2015年08月17日

ヌマタ・オン・ザ・ルーフです

 一年ぶりにブログを更新します。
 さて、激動?の一年が過ぎ、70余年過ごした地を離れ、新たな場所に新社屋を作り営業しております。これを機に社名も変えました。有限会社ヌマタ・オン・ザ・ルーフです。今後ともよろしくお願いいたします。
 新天地での営業は良いのですが、それまでの場所の片付けがまだ終わっておりません。8月いっぱいはかかりそうです。はあ〜(タメ息)。車の表示も旧社名のままだし。会社の引越し、社名変更ってやっぱりたいへんですね。
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2014年08月01日

無菌社会へ向かう日本

 珍しく真昼間にブログを書きます。気晴らしも兼ねて。
 ところで、最近、アクセス数のトップが何故か「ノラキンの夏、再び」になってます。その前は「石垣島に移住した俵万智さん」がダントツだったのですが。摩訶不思議な現象です。

 このところずっと、最近の法規制の厳しさについて、それを懸念する立場から記事を書くことが多かったです。あれもダメ、これもダメ、国中から一切の有形・無形の毒を排除しようとする動きに、ちょっと待てよ、と言いたくて書いてきました。

 もちろん、すべての規制をなくせ、などと非常識なことを言う気はありません。
 しかし、あらゆる有形・無形の毒を排除しようとした結果、日本社会は、実にギスギスし、息苦しく、わくわくする希望も失われ、面白味も刺激もなく、ただストレスだけが増大する嫌な状況になってませんか?まるで真っ白な無菌病室に隔離されたみたいに。

 たとえば、テレビの世界。
 テレビの娯楽性が低下している原因のひとつは、この無菌化現象にある、と思います。毒が失われた娯楽=刺激のない娯楽など、娯楽と言えるでしょうか?日々蓄積される欲求不満を解消してくれるのが娯楽です。そこには本来、適量に処方された毒が必要でした。その処方が優れたものを「洗練」と呼びました。

 もともと、人間の内部には、ドロドロした欲望、残忍性、不条理性があります。誰もがその発露を求めて彷徨っています。発露の仕方も人それぞれ。生のまま発露すれば犯罪になり、高度に昇華させればアートになります。
 人生の醍醐味は、この犯罪とアートの間のグラデーションの中にあると、私は思います。

 犯罪はもちろん撲滅すべきです。先日も、危険ドラックによる痛ましい事件がありました。亡くなられた方は大変お気の毒であり、私も怒りをおぼえます。
 その一方、あまりに無菌化され無害化された世界の代償として、多くの人生の楽しみが奪われつつある現状を危惧します。本末転倒な日本の行く末を案じます。

 中には、刺激なんかなくても良い、ひたすら安心・安全な中で暮らしたい、と思う人もいるでしょう。高齢化するに従い、その傾向は強くなります。

 問題は、選択の自由がないことです。日本はつまらないから、もっと自由な国に行って、自己責任で行きたいと思っても、誰もがそんな人生を選択できるものでもない。

 そんな中、逗子市が、海岸での音楽、飲酒の禁止を条例で決めました。
 私は、それまでの夏の浜辺の喧騒には眉をひそめていた方なので、この条例には賛成です。そこに選択の自由が残されているからです。騒ぎたい連中は、よその海に行けば良いだけですから。

 小学生だった頃(昭和40年代)の少年マガジンなどの漫画雑誌や、当時のテレビドラマは今見ても面白いです。また、松田優作さんの探偵物語や、先日他界した林隆三さんが出演していたハングマン(昭和50年代ですが)を見ると、当時の東京は随分と猥雑で汚かったかったんだな、とあらためて実感します。街はタバコの煙にまみれ、とても21世紀人には暮らせないかも。

 でも、どちらかを選べ、と言われたら・・・。私は過去を選ぶかも知れないなあ・・・。
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2014年07月18日

リーダー受難の時代

 今日も心の叫びを文字にします。

 世の表層には表れておりませんが、今、組織のリーダーや管理の立場を担う人々がたいへんな目にあっています。事態は、じわじわと真綿で首を絞めるように進行しているので、当事者の中には、気付いていない方々もいらっしゃるでしょう。何か最近しんどいような気がする、とは思ってるでしょうが。

 よくよく気をつけて世間を観察し、出会う人々の話に耳を傾け、そして何よりも我が身が置かれた状況を分析すれば、明らかに日本が変わったことが分ります。

 何が変わったかと言うと、組織のリーダーや、管理側の人間のリスクが大幅に高まったことです。

 現代日本の法律による規制は、もはや、守ることが不可能な領域まで肥大しました。そして、守れなかった場合の罰則は、そのほとんどが組織のリーダーが担わされます。いまや、リーダーという仕事は、ハイリスク・ローリターンです。これほど割に合わない役目はありません。

 私の周囲でも、経営者や人を管理する立場の方々で、優れた感性を持った人ほど、この危機を口にします。私は、彼らの話の詳細に耳を傾けます。私にとっては未知の業界の話ですが、聞いていると、最初は唖然とし、次にうんざりし、最後は他人ごとながら腹が立ってきます。彼らは、声をひそめ、まるで告げてはならない告白をするかのように、私に語りかけます。だから、その詳細はここでは書けません。

 逆に、まったく感じていない経営者もいます。このタイプは2通りあって、ひとつは感性が鈍いタイプ。もうひとつはコンプライアンスの精神がゼロの経営者です。

 問題なのは、このコンプライアンス意識ゼロの経営者です。

 こういう経営者が同じ業界にいると、たいへんです。
 例えば、法令順守の会社経営者と意識ゼロ経営者が競った場合、どちらが勝つでしょうか?
 短期的には、当然、後者でしょう。今は長期的に構えられるほどの余裕はない時代ですから、勝負はすべて短期です。したがって、短期的な勝利者=最終勝利者でしょう。
 彼らは、法令順守にまつわるコストがゼロですから、その分、安値販売するも良し、がっぽり儲けるのも良し、まあ、お好きにして下さい、と言うしかありません。
 こうして、真面目な経営者の会社は、淘汰され、気がつけば、残っているのはろくでもない会社ばかり、となります。それが、20年後の日本です。

 子育てする場合を考えてみましょう。
 親が子に、順守不可能な厳格なルールを定め、守れなかったら厳罰を与えるとします。
 二人兄弟のうち、長男は真面目、次男は、見つからなければ何をやってもかまわない、と考えるタイプだとしたら、生き残るのはどちらでしょう?

 権力を持つものは、それに相当する責任があります。
 公権力を持つ皆さんには、そのことをきちんと自覚していただきたいです。
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2014年06月25日

外形標準課税の恐怖

 また、国民を苦しめる新しい法律が生まれようとしています。今度は「税法」です。

 ここ数ヶ月くすぶり続けている外形標準課税の適用枠拡大問題。ターゲットは資本金1億円以下の中小企業です。

 外形標準課税というのは儲かってるか否かにかかわらず、事業規模によって課税される税金が決まる制度です。今までは、資本金1億円を超えるの大企業だけに適用されていましたが、安倍政権は、今後それを中小企業にまで枠を広げようとしています。
 外形標準課税は、企業は利益が出ようが出まいが払わねばならない税金ですから、国家の側からみれば、景気に左右されず安定した財源になるわけです。そういう意味では、固定資産税などの資産税に似ています。
 しかし、課税される方からすればたまったものではありません。特に、赤字に苦しみながら、過去の内部留保にすがり、必死で起死回生を狙っている企業などは、ひとたまりもありません。そういう会社は、早く死ね、という意味のようです。

 もうひとつ、恐ろしい税法改正案があがってます。今までは、企業は赤字を7年間キャリーオーバーできたのですが、その優遇制度が廃止されようとしています。

 これは、とんでもない話です。

 中小企業、小規模事業者の経営は、安定しません。利益の出る年もあれば、赤字の年もある。同じ景気の波があれば、大きな船より小舟の方が影響が大きいのです。
 赤字のキャリーオーバーは、その不安定な業績を平らにならす効果があり、多くの企業がこの制度によって経営の安定化が図られてきました。

 例えば、ある製造業が老朽化した工場建屋を解体するとします。解体費用は除却損として一括償却しますから、解体費用に2千万円かかれば、その分が本来の利益から差し引かれます。実際に全額自己資金でまかなえば、現金が2千万減るわけです。本来の利益が5百万円、解体費用2千万円を計上すれば、その年度は1500万円の赤字。但し、この赤字は7年間持ち越せます。つまり、翌年、好調で利益が1500万円出たとしても、その会社は、利益にかかる分の税金は0になります。こうして、一時的に発生する赤字を取り返すことが、今までの税法では可能でした。

 この優遇制度がなくなれば、今後10年で多くの中小零細企業が消滅するでしょう。赤字に苦しみ、やっと利益が出れば、税金で取られるのですから、浮かぶチャンスが無くなるのです。おそらく、借金がなく、かつ後継者のいない企業は、ためらいなく廃業の道を選ぶでしょう。困るのは、まず従業員。そして、大企業です。

 中小企業、小規模事業者の力なくして、大企業は存続出来ません。日本経済は終焉に向かいます。日本の政治家には、それが分っていません。頭で分っていても実際の行動に表せないのでは、外形標準的に見て、分っていない、と断定して良いでしょう。

 もっとちゃんと中身を見ましょう。最近のニッポン、外形だけの判断が多すぎます。男女の関係だって外形だけでくっつくとたいていすぐ別れるか、不幸で非生産的な家庭生活が待っています。サッカー観戦などにうつつを抜かしている時代ではありません。
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2014年06月21日

過労死について考える

 過労死防止法が成立しました。またひとつ新しい法律が誕生したわけです。

 過去の記事「憲法と法律」でも書きましたが、基本的に「法律」は国民の自由、権利、財産を制限するものです。もちろん「法律」によって守られる人々もおりますが、その一方で、自然権の一部を剥奪される人々も出てきます。究極の表現をすれば、「法律」は国家のために存在します。もっと具体的に言えば、「法律」は役人の都合の良いように作られます。だから役人の勝手をさせないために「国会」は国民の代表である議員でもって構成され、その組織は「立法府」と呼ばれます。法律に縛られるのは国民だからこそ、その国民の代表に法律を成立させる権限を持たせなければフェアではない、という崇高な思想がそこにあるわけです。今の日本ではほとんど形骸化しておりますが。

 今回は、法律の概念の話ではありません。過労死が起こる原因の話です。

 過労死が起こる根本原因は、2つです。
 納期と品質です。
 さらに品質には2タイプあります。必要十分品質と過剰品質(もしくは勘違い品質)です。過剰品質を求める人が個人の場合をクレーマーと呼びます。

 どんなに仕事が殺到しても「納期」という制限がなければ過労は発生しません。疲れたから休むね、その分、ちょっと納品が遅れるから待ってね、と言えば良いわけです。
 それでも、「この納期だけは絶対だよ」と言われた場合は、品質を落として調整します。但し、クリアしなければならない最低のレベルだけは維持します。それが必要充分品質です。製品であれば実害のない部分(美観など)から順に削って行きます。

 しかし、困ったことに日本人は真面目です。その中にあって私、沼太英雄士は「真面目過ぎる」と言われます。一体、私はどれほど恐ろしい人間なのでしょう。

 東日本大震災の年、福島県で瓦工事店の社長さんが二人、自殺しました。あまり知られていませんが業界では有名な話です。原因は、殺到する修理依頼をさばききれず、かつ、中には、怒鳴り込んでくるお客がいたりして精神的・肉体的に追い詰められたためでした。実に痛ましい話です。このお二人は間違いなく過労死です。但し、経営者が過労死しても法も誰も守ってくれません。

 人間、命を犠牲にしてまでやらなければならないことって、無いとは言いませんが、そんなに多くは無いですよ。これは私の信念です(ちょっと大袈裟かな?)。

 震災の時、私は従業員に過剰な無理はさせませんでした。もちろん、精一杯頑張りましたが、自分で決めたあるレベルを越える無理は、絶対にさせませんでした。
 まず、電話。鳴り止まない電話への対処方法は、「今出ている1本の電話に集中しなさい」。
 電話中に別な電話が鳴り出すと、人手が足りず、ついつい今の電話を早く終わらせ、次の電話に出なければ、という強迫観念にかられます。私の指示は「どうせ出られないならその鳴っている電話無視しなさい。仕方ないから。それよりも今電話で話している相手から必要な情報を確実に入手しなさい」。結局それがもっとも効率的な方法なのです。

 また、震災直後のある日の電話。
 「早く修理に来ないと雨が降ったらどうするんだ!雨漏りしたらどうするんだ!」
 それに対する「真面目過ぎる男・沼太英雄士」の答弁「雨漏りしても晴れれば乾くから問題ありません」
 もちろん、私は悪者です。言われた方は相当腹が立ったと思います。ちなみに当時、弊社の鉄骨造の倉庫も母屋が折れ曲がり、屋根材が落ちてました。修理したのは震災から2年後です。

 お客様はもちろん大切にしなければなりませんが、同じくらい従業員だって大切です。自社の仕事に誇りを持てるのであれば、過剰なお客様満足度を追及するあまり、そのしわ寄せを従業員や取引先に押し付けるべきではありません。そして、過労死を生むのは、従業員や取引先に無理を強いる経営者の責任である以上に、消費者である我々一人一人の態度であることを肝に銘じるべきです。

 結論。日本人はもっと緩く生きた方が良いと思います。そして、もっともっとお互いを許し合えれば良いなあ、と思います。それがいちばんの過労死撲滅方法と、真面目過ぎる私は考えるわけです。

 
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2014年06月16日

田舎の年収300万は東京の年収1000万に相当する

 長いタイトルですみません。 ここ数年、首都圏在住の友人たちと話していて感じたことを書きます。かなり大雑把な数字を入れてますので、細かい点はご勘弁ください。

 テーマはお金です。
 田舎で年収300万の暮らしと、東京で年収1000万の暮らし。どっちがゆとりがあるでしょうか?

 私は50代の前半ですが、同年代の都会の友人たちは、ほとんど家を建ててしまいました。土地込みで6000万ほどかかったみたいです。田舎の感覚からすれば、どんな豪邸かと思いますが、まあそれなりに立派な家なのでしょうが、豪邸というほどでもないでしょう。ちなみに盛岡あたりで大手ハウスメーカーで建てれば、土地込みで3200〜3900万がいいところでしょう。
 それと、首都圏では中学くらいから私立に通わせることがけっこう普通みたいです。学費は、中学も高校も1年で100万近くかかるんですね。それまでにも塾に通うので出費がかさむみたいです。

 当社の従業員で、住宅ローンを抱えているのは、18人中1名です。他の従業員は、私も含め親と同居しており、おそらく今後、自分で家を建てる予定はない、と思います。私もありません。

 田舎では、奥さんもほとんど働きに出てます。もともと農家の考えの延長にあるのでしょう、嫁が家事以外の労働をしなくてよい、という思想は田舎にはありません。専業主婦というのは、都会的ライフスタイルだと思います。

 また、田舎はほとんど通勤時間がかかりません。それは仕事にかかわる拘束時間がそれだけ短いということです。東京では通勤片道1時間は当たり前。往復で2時間から3時間は普通でしょう。
 その点、田舎の通勤時間は、5分から長くて20分です(当社の場合ですが)。
 兼業農家も多く、朝仕事を終えてから会社へ、という従業員もおります。当然、農業収入もあり、野菜も自前で調達できますので食費も浮きます。お米をわざわざ買っている従業員はたぶんいないと思います。

 田舎の方がお金がかかるものがひとつだけあります。車です。ほとんどの家に、数台の車があります。通勤や買物に必要ですから、生活必需品であるわけです。

 さて、ここまでの条件で生活のゆとり度を比較してみましょう。
 
 まず、東京の年収1000万のサラリーマン。奥さんは専業主婦とします。
 家のローンが月20万として年間240万。
 子供二人で、どちらも私立だと学費が年間200万。
 お金を生まない通勤時間を労働収益(時給1000円のアルバイトをしたとして)に換算して、往復通勤2時間のサラリーマンで1日2000円×230日=46万。
 これらの合計486万が都会生活のコストです。
 年収1000万だと、手取りはよくて800万くらいでしょうか?
 では、その手取り800万から都会生活コスト486万を差し引くと、314万円です。これが実質的に自由になるお金です。

 一方、田舎の年収300万。手取りは、250万くらいかな?
 田舎では、高校までほとんど子供は公立に通います。授業料自体はそれほど大きな負担ではないでしょう。その他の都会生活コストもほとんどかかりません。余分に必要な車といっても軽自動車かヴィッツとかのクラスです。メイン車の他にそれらが1〜2台。維持費が年間燃料代を入れて約40万。学費と合わせて60万くらい差し引けば、都会の年収1000万サラリーマンと比較可能でしょう。
 そうなると、190万円が自由になるお金です。

 ここで表に出ない数字があります。ほとんど0に等しい通勤時間の余裕が生み出すプラス面です。都会のサラリーマンが時給1000円で2時間働いた場合に相当する収益です。それは農業収益だったり、本来お金を払うべきところを自分の労力で済ませた場合であったりします。したがって、比較のため、都会の年収からその分46万を差し引いてあったわけです。

 都会派は314万。田舎派は190万。124万の差があります。この差を埋めるのが、田舎の奥さんの収入です。非課税枠の110万で奥さんが働けば、その差は14万まで縮まります。奥さんがもうちょっとがんばって働いて、年収130万くらいになれば、ほぼトントンになります。
 つまり、都会の1000万プレーヤー、お子さん二人で私立、奥さん専業主婦というカッコイイ家族と、田舎の年収300万、お子さん二人公立、奥さん共稼ぎ年収180万の家族は、金銭的なゆとりはほぼ同等です。

 さらに言えば、田舎は親との同居がほとんどです。だから奥さんが働きに出れるわけです。そして、親には年金があります。お父さんが厚生年金に入っていれば、年額200万は超えるでしょう。親が元気であれば、老人の生活費はそれほどかかりませんから、可処分所得として100万近く加算して良いでしょう。そうなれば、田舎派は都会派に圧勝します。もちろん、期間限定ではありますが。

 都会生活のコストを一言で表現すれば「見栄張りコスト」です。会社の同僚や上司、部下、友人、ご近所さんやママ友の間で、ついつい比較してしまうのでしょう。人間ですから当然です。見た目にも気をつかいますから、洋服代にかかる費用も田舎の比ではありません。他人との比較で、日々、心穏やかではありませんね。

 その点、田舎は開き直ってしまえば、ほとんど生活にお金がかかりません。要はその生活を受け入れられるか否かです。人それぞれの好みの問題でしょうね。
 
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2014年06月02日

凍えた心

 6月です。暑いです。でも車の窓を全開にした時の風がヒヤリと冷たく、まだ真夏ではないことを実感します。 
 沼太英雄士と名乗りはじめて1年半が過ぎました。一部では定着し、他の一部ではまったく無視されております。
 今年の1月だったと思いますが、ある方の送別会の会場で、数年前にたいへんお世話になったY社長(お世話になっていた当時の役職)と3年振りにお会いいたしました。還暦を過ぎたY社長は、今も大阪で現役で建築のお仕事をされております。
 Y社長が盛岡にいらした当時、何度もお酒の席に誘っていただきました。いつも実に楽しいお酒でした。私にとってはほんとうに心温まる思い出です。
 そのY社長と3年振りでお会いし、挨拶をしました。私は、「名前を変えましたので」と言って新しい名刺を差し出しました。
 「えっどうしたの?」とY社長。
 私は、「いろいろあって、験(ゲン)をかついで名前変えました」と、笑いながら言いました。
 その後、Y社長の現在のメール・アドレスに、「久しぶりにお会いできうれしかったです」と告げる簡単なメールを送りました。
 すぐに返信がありました。そこには、
 「改名するに至る苦労があったこと、ご拝察いたします」という一文がありました。
 Y社長には、詳しい話は一切しておりませんが、宴席での短い立ち話から、私の心の内を察してくれたのでしょう。あらためてさすがだな、と感服しました。
 最近になってやっと自覚したのですが、心がまだ少しマヒ状態にあるようです。大好きだった八十八夜が近づく頃の季節感や、田んぼのカエルの声に対し、心が今ひとつ反応しません。
 チャンドラーの「ロング・グッバイ」に出てくる有名な文章「さよならを言うことは、少しだけ死ぬことだ」。
 この言葉のほんとうの意味がわかったような気がします。
 心=感受性は、あることをきっかけに、その一部分が死滅することがあるようです。まるで、肉体を形成する細胞の一部分が死滅するように。これは確かに、少しだけ死ぬこと、です。
 でも、スパイダーマンもがんばってます。アメイジング・スパイダーマン2。2回も見てしまいました。
 私も英雄士に変身したので、負けてはいられません。
 
 
 
posted by walker at 18:52| Comment(0) | TrackBack(0) | その他