2011年11月30日

創業者 沼田三次郎の話(後編)

 昭和33年、法人化し有限会社沼田製瓦工場となった当社ですが、三次郎はその前年、遠野市農協の組合長に就任しておりました。毎日、農協に通っておりましたので、会社(当社)を守る方はたいへんだったと思います。
 父は当時、21歳くらいでしたが、その若さで実質、沼田製瓦の経営を任されたようなものでした。
 私が推測するに、ジイサンは、本質的にあまり会社経営に興味がなかった、というか好きではなく、長男にさっさと面倒なことを振ってしまいたかったのではないか、という気がします。
 ちなみにこれはその頃の父のエピソードです。
 ある日、資金が足りなくなり、従業員の給料が払えなくなったそうです。思いついたのは、当時の北日本銀行遠野支店長の顔。実は、北日本銀行の遠野支店を開設する際、なぜかジイサンが一役買っており、支店長はよくうちに立ち寄っては、ジイサンと談笑し、父のこともかわいがってくれていたようです。二十歳そこそこの父からみれば、優しいオジサンという風に見えていたわけです。
 さっそく北銀へ行って、窓口で「沼田瓦ですが、お金を貸して欲しい」と言いました。行員さんに怪訝な顔をされ、待たされていると奥から支店長さんが現れました。父は、助かったとばかり、借り入れのお願いをしました。
 支店長さん、曰く「イサオさん(父の名)、あなたはそのお金の返済のための資金計画表をお持ちですか?」
 父「?」
 支店長さんは言いました。「返済計画もない方に銀行はお金を貸せませんよ」
 それまでは優しいオジサンと思っていた人物が見せた別の顔でした。まあ、当然の話ではあります。
 このことが、父にとっては天地がひっくり返るほどのショックだったようです。以来、父は、絶対、銀行なんかに頼るもんか、とかたく心に決めました。当社の無借金経営の方針がその瞬間に決定しました。勿論、それが経営的に良いかどうかは、別の話です。
 
 話は前後しますが、三次郎が遠野で開業した理由は、先に書いた、燃えるような意地、が一番だったと思います。また、故郷・盛岡で開業するのはお世話になった木村窯業所さんに申し訳ないという遠慮がありました。その一方、それと対照的なクールな判断が三次郎にはありました。
 盛岡で修行した三次郎は、冬期の会社経営の辛さを身に沁みて感じてました。岩手の内陸部は、冬は雪に覆われ、屋根工事ができません。したがって通年で従業員を雇うのが困難です。遠野であれば沿岸部も近く、冬はそちらで仕事が出来るのでは、と考えました。岩手でも太平洋に面した沿岸部は、冬でも雪が少なく温暖な気候なのです。
 この考えが、当たりました。その後、本格的な自動車の時代が到来しました。そうなると遠野からは、沿岸部はもちろん、久慈、二戸以外の都市には1時間から1時間半で通えます。しかも、新日鉄釜石の発展で、お隣の釜石市は10万都市になろうという勢いでした。
 時代は、高度経済成長期へと突入します。地の利を得て、当社も年々業績を伸ばしていきました。
 昭和40年代の初期、私が小学校の低学年の頃でしょうか、ついにお隣の瓦屋(窯元)が廃業しました。こうして、当社は遠野でただ一軒の瓦屋となります。
 よく人から、競争相手がなくて良いですね、商売楽でしょう、独占企業ですね、と言われるのですが、初めから競争相手がいなかったわけではないのです。それどころか、ただ一社になるまでには先代の時代の熾烈な戦いがあったことを、どうぞご理解ください。そして、地元でただ一社であることは、同時に他の地域のライバル会社からの攻撃に日々さらされていることでもあります。当社が必死で施工法の開発、職方の施工技術の向上に励んでいるのは、そういった緊張感からであります。

 三次郎の農協での仕事をささえたのは海老子川五郎さんという方です。戦後、復員して農協に入った海老子川さんと三次郎はすぐに意気投合しました。私が子供の頃、海老子川さんがよく家にやって来て、ジイサンのことをアニキ、アニキと呼んでいたのが強く印象に残っています。子供からすると、ジイサン同士で片方がアニキと呼ぶ姿は奇妙でもあり、またやけにカッコよくもありました。二人でいる時はホント若々しかったです。
 三次郎の葬儀を本当に意味で仕切ったのは海老子川さんだったと思います。しかも一切表に出ずに。その数年後、海老子川さんも旅立たれました。この二人の信頼関係・友情には崇高なものさえ感じます。

 友情と言えば、盛岡のレンガ職人の川村さんがおりました。年末のあいさつに行くと、ほぼ半日がかりで、ジイサンの思い出話を聞かされます。うちの菩提寺は盛岡の寺町にある光台寺なのですが、年始、お盆、彼岸、命日のお参りに良くと、必ず川村さんの名刺が墓の前に置いてあります。どんなに早く言っても、必ず先を越されます。現在100%負けてます。いったい何時にやってくるのでしょう?
 川村さんによると、三次郎はたいへんな酒豪で、本町通りに行き着けの店があったそうです。もちろん家族の者は誰も知りません。と、言うか家の中ではジイサンはまったく酒は飲めない人ということになってます。どちらが本当なのか今となっては分かりません。

 また、木村窯業所時代にこんなエピソードがありました。
 ある日、社長さんから、お前だけだ、と今で言うボーナスを貰ったそうです。仕事も出来るし、家もたいへんなのだから役に立てろ、という意味だったのでしょう。
 三次郎は、従業員全員を引き連れ料亭に行き、「今日はこれだけ金がある。遠慮しないで飲むべし!」と言って、皆に振る舞い、一晩でそのお金を使い果たしてしまいました。
 そのことが木村社長の耳に入り、三次郎は呼ばれて、私の気持ちがわからんのか!と社長にこっぴどく叱られました。その時、三次郎「こっそり自分だけお金をもらうなんて、出来なかった」と言ったそうです。

 晩年は、朝早くから細工場へ行き、夕方まで鬼瓦や細工物を作ってました。細工場には根澤さんという弟子の方がおり、たいへんお話が面白い方で、私は、学校から帰ると、細工場で粘土で遊び、根澤さんの話を聞いて過ごしてました。
 三次郎の作った焼き物は膨大な数です。鬼瓦はもちろん、美しい観世音菩薩から河童や狸の置物、漬物屋さんから頼まれて作った大根の棟瓦など・・・。オチンチンをぶらさげて斜めに寝ている狸の置物など、いったい何を思って作ったのやら、昨年、Naoちゃんと片付けしていてため息が出ました。
 時々、思いがけぬところでジイサンの焼き物と出会います。それらはひとつとして売ったものはないそうです。全部、あげたいと思った人に差し上げたそうです。河童ブチに置いてある河童の置物は、今は亡き河童ジイサンが町へ行く中、中間地点の当社でお茶飲み休憩をしていたのが縁で作ってあげたのが始まりのようで、河童ジイサンと同様一時けっこうメジャーになってしまいました。
 倉庫には今でも膨大な量のジイサンの残した石膏型があります。

 三次郎は90歳まで元気に細工場で働き、足腰が弱って91歳で寝込み、1994年2月、94歳で他界しました。寝床で3年間ずっと「ヒロシ(私)を呼び戻せ」と言い続けていたそうです。そして、まるでアテツケのようにあこがれの太田裕美さんとの仕事を台無しにする絶好のタイミングであの世へと旅立ちました。そこら辺の詳細は過去ブログ「強く念じた思いは実現するか?」をご参照願います。
 母が言ってましたが、三次郎氏を一言でいうと「何をやってもどこか滑稽な人だった」そうです。同感です。
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2011年11月29日

創業者 沼田三次郎の話(中編)

 前編の続きです。
 勤めていた窯元を解雇され無一文になった三次郎。「新張の人たち」の支援を得て、自分を解雇した窯元の隣に、自分の窯を作り、戦いを挑みました。
 最初の試練は、電線を引いてもらえなかったことでした。当然、隣の窯元まで電線は来ています。それがなぜか、電力会社がそれを拒んだ。三次郎、電力会社の遠野所に乗り込み直談判しました。それが相当壮絶な談判だったようです。まあ、本人の口から家族もその時の大立ち回り?の話は聴いておりましたが、裏付けは、私の同級生です。私が中学の時、転校生だった高橋アキラというヤツと同じクラスになり、彼は、当時の東北電力遠野所長の息子でした。彼が私に「お前、沼田三次郎さんの孫か?」と言うのです。「そうだが、なぜお前がジイサンのことを知っている」と聞き返すと「オヤジから聞いた」と言いました。「なぜ、オヤジさんがウチのジイサンを知っているのだ」と聞き返すと、「お前のジイサンが凄い人だからだ」と言います。どうやら当時のジイサンの立ち回りが電力会社で語り継がれていたみたいです。
 以後、高橋アキラは、私の顔を見る度に、「お前のジイサンは凄い」と言い、ある日、何かで落ち込んでいる私のところに来て「大丈夫だ、お前は沼田三次郎の孫だ。何かあればじいちゃんがお前を守る」と言って私を励ましました。ところで高橋アキラよ、万一このブログを見ていたら連絡せよ!そして私にウソをついて花巻北高を受験したことを詫びよ!私はお前も遠野高校を受けると言ったから遠高へ行ったのだ。
 思わず脱線してしまいました。話を戻します。
 隣との戦いはどのようなものであったか?例えばこんなことがありました。
 窯元の場合、忙しいかどうかは、窯を燃やす煙で判ります。受注がなければ焼く瓦がありませんから、窯に火が入りません。したがって両社は競って窯に火を入れました。隣で火が入ると、片方は焼くものがなくても火を入れる、そんな意地の張り合いだったようです。
 時代は大戦に突入しました。当社も軍事指定工場になりました。
 戦火が去った頃、三次郎は、資産(お金・土地)と名誉(松崎農協理事)を手にしてました。無一文で創業してから僅か9年です。農協の理事は、その手腕を買われての就任でしたが、財産についてはどうしたのでしょう?木村窯業所の現社長さんと飲んだ時に聞いたのですが、どうやら、戦時中、盛岡に事務所を置き、県内の窯元の製品を取りまとめて出荷する仕事をやっていたようです。詳しくは判りません。ここが謎と言われている部分です。父もよく分からないようです。ただ、数年前、年金問題があった時、当社にある年配の方から電話がありました。昔、盛岡の瓦組合(定かな名称は不明)で事務をしており、その時、年金をかけてもらっていたはずとのこと。で、三次郎氏がそこの代表だったようで、それで当社に電話をしてきたようでした。私はもちろん、父も今となっては何とも返答のしようがなかったようです。
 さて、戦後となり間もなく、また騒動が持ち上がります。今度は農協の方です。
 当時、松崎地区はヘンピな土地でした。米を出荷しようにも効率が悪い。三次郎は軽便鉄道の駅の側に、松崎農協の集荷場所が絶対に必要と思っておりました。目を付けていた土地に買い手が付きそうになり、三次郎は農協の理事会を通さずにその土地を買いました。しかも自分のお金で。懲りない人です。
 理事会で事後承諾を取ろうと思いましたが、案の定反対に合い否決されました。
 そしてここからが男・沼田三次郎です。
 まず、自分のお金で買ったにもかかわらず、松崎農協の名でその土地を仮登記しました。
 そして、数年後、そこに国鉄が開通し、なんと三次郎の購入した土地の目の前に駅が建ったのです。今のJR遠野駅です。
 農協は色めき立ちました。普通なら、それみたことか、と高値をちらつかせて農協に買取を持ちかけるところですが、三次郎は、そうはしませんでした。自分が当時買い取ったままの価格、確か6,000円だったと父が記憶してましたが、要するに1銭も儲けずにその土地を手放したのです。さらに、ではその土地をどうするか、倉庫を建てよう、ということになり、三次郎はレンガ作りを提案しましたが、自分の会社を儲けさせる意図だろう思われるのが嫌で、なんとそのレンガを全て花巻の工場から買いました。一切の私利私欲を捨てた行動でした。ちなみにその花巻の工場の社長さんとは、それがきっかけでマブダチになったそうです。
 私利私欲を捨てた、と言えば、三次郎は、農協からは報酬を得ていませんでした。非常勤ということで年金さえかけてもらってませんでした。それでも毎日のように農協に通ったそうです。当時は当社の経営内容も良くはありませんでした。ほうとうに我がジイサンながら何を考えているんだかわかりません。
 昭和32年、合併して遠野市が誕生し、三次郎は晴れて遠野市農協初代組合長に就任します。しかも無報酬で。
 たいへんだったのは家族です。その中でもっとも犠牲になったのが我が父親です。
 父は、瓦屋を継ぎたくありませんでした。大学にも行きたかったそうです。三次郎はそれを許さず、高校を出るとすぐに父に会社をやらせました。父がそれでも会社を継いだただひとつの理由、それは、「隣の瓦屋に負けたくない」という意地でした。
 昭和33年、当社は法人化しました。有限会社沼田製瓦工場の設立です。
 経営は、まだまだきびしかったようです。
 さて、二足わらじを履いた三次郎、隣の瓦屋との戦いはこの先どうなっていくのか。後編を乞う!ご期待!

 後編予告
 後編は、番外のエピソード、関係者の証言を元に、さらに沼田三次郎の実像に迫ります。
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2011年11月28日

創業者 沼田三次郎の話(前編)

 当社は昭和11年の創業です。
 創業者は沼田三次郎。私の祖父です。孫の私が言うのもなんですが、その人生は激動で、心躍るものでした。爽快なエピソードに満ち、またその一部は、謎、とされています。

 沼田三次郎は、明治33年、盛岡の八日町(現・本町通り)に生れました。
 家は貧しく、幼くして丁稚奉公に出されました。仕事は、裁縫やボタン付けのようなことで、その女の子のような仕事が嫌で嫌で仕方なく、ある日、三次郎は奉公先を飛び出しました。かといって家に帰れば叱られて、元の奉公先に連れ戻されるだけですから、どこにも行く当てがありません。仕方なく、家の近所(現・北山)にあった空き地で、土を丸めて人形など形作り遊んでました。
 夕刻、そこに、ある方が現れ声を掛けたそうです。
 「坊主、何をしている?どこの子だ?」(たぶん、こんな風に言ったと思います)
 三次郎は、正直に、奉公先から逃げて来た、とその方に話しました。
 すると、その方は「そうか。ところで坊主は粘土で人形など作るのが好きなのか」と問いました。
 三次郎が、好きだ、と応えると、その方は思いがけぬことを言いました。「ならば、明日から、私のところで粘土でモノを作る仕事をすればいい。だから今日は家に帰りなさい。私が送っていってやるから」
 三次郎は、その日はその方に連れられて家に帰りました。家に着くとその方は、明日の朝、迎えにくるから、と言って去っていったそうです。
 しかし、三次郎は信じていませんでした。どうせ、自分を家に連れて帰るためにウソを言ったのだろう、と思ったそうです。
 ところが、翌朝、その方はちゃんと迎えに現れました。そして、三次郎を新しい職場に連れて行きました。
 その職場は「木村窯業所」という陶器瓦の製造工場でした。その方、木村氏はその社長でした。三次郎が遊んでいたのは、木村窯業所の粘土の採掘場でした。沼田三次郎12歳(確か)の時の話です。
 木村窯業所は、現在では瓦工事の他に、現社長の長男さんが始めた盛岡発の地ビール「ベアレン醸造所」で有名です。次男さんが主に瓦工事の方の後を継がれてます。余計な話かも知れませんが、長男さんは東北大、次男さんは北海道大学、三男さんは帯広畜産大学卒の獣医さん、と優秀な家系です。
 話戻って、三次郎は木村窯業所で、鬼瓦の製作に励みました。6年修行した後、木村社長から言われました。
 「三次郎、お前は鬼瓦職人として充分腕を磨いたのだから、後は、自分のその腕で生きていきなさい」
 そして三次郎は盛岡を離れ、さらなる修行の旅に出ました。18歳だったそうです。
 当時、岩手県内では30数箇所の瓦の窯元があったそうです。
 その数の多さに意外に思われる方も多いと思うのですが、当時の瓦の製造は、今のような工業化されたものではなく、全て手作業。焼成もだるま窯という小さな窯で少量ずつ焼いてました。当時、瓦は、ホントの地場産品で、県内の需要を満たす為には30箇所以上の製造所が必要だったわけです。
 沼田三次郎は、その県内の窯元を渡り歩いて、さらに鬼師としての腕を磨きました。
 そして、数年後、遠野にあった窯元から声が掛かります。経営がおもわしくなく、力を貸してほしい、ということでした。
 遠野は、海と陸を結ぶ交通の要衝の地。当時は宿場町として、県内では盛岡についで栄えていた町でした。
 三次郎はその遠野の窯元の再建に全力で臨みました。ここでいかにも三次郎らしいエピソードがあります。
 どうしても必要な設備投資があって社長に進言しましたが、認めてもらえませんでした。そこでどうしたか?
 何と、三次郎は、自腹でその設備を購入しました。その為の資金として、盛岡の現・菜園に持っていた自分の土地を売ってしまいました。盛岡の菜園です。当時はたぶん未開の地だったかも知れませんが、今は盛岡でも一等地です。売らずに持っていれば、我が家は今頃、左ウチワだったと思います(悔しい)。
 そして、その窯元は再建しました。その直後、思いがけぬことになります。三次郎は突然、その窯元を追い出されてしまいました。窯元の社長が、このままでは会社を乗っ取られると思ったのでしょう。ある日、三次郎を呼び、「三次郎さん、いやいや今までありがとう。お陰で助かった。でっもういいから」と言われたそうです。とんでもない話です。
 自腹で設備投資してしまったものだから、本当に一文無しだったそうです。三次郎はいっそ満州に渡ってやろうと思ったそうです。それを引き止めたのがその妻(私の祖母)でした。お腹に赤ちゃん(私の父)がいたためでした。
 その時、困り果てた三次郎に、救いの手が差し伸べられました。彼の働きぶりを買っていた近所の何人かの方たち(我が家ではその人たちを、地名を取って「新張の人たち」と呼び、今だ恩義を忘れてません)が融資してくれたのです。その資金で、三次郎は自分で窯元を立ち上げます。どこに立ち上げたか?なんと自分を追い出した窯元の隣です!もの凄い意地です。これも実に三次郎らしい行動です。それが昭和11年。太平洋戦争が5年後に迫ってました。ここまでで沼田三次郎の話・前編を終了します。中編後日。お楽しみに。

 中編予告 
 この後、三次郎の生涯でもっとも謎とされている時代に突入します。無一文から、なぜ、戦後、地主、遠野農協初代組合長にまで登りつめたのか?組合長時代のこれまた爽快なエピソード。身内を誉めるハシタナサを充分承知で書きます。だって、事実は事実。かつて遠野にこういう人物がいた、ということをどうしても分かってもらいたい。それがたまたま私の祖父だっただけです。
posted by walker at 19:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 当社の歴史