2013年05月25日

思い出トランク

 昨日、机の上の名刺ボックスである方の名刺を探していたところ、大学時代のサークルの先輩(と言っても歳は同じ)の社会人になってからの名刺を発見しました。 その名刺を貰ったのは確か1997年の春だったと思います。やはり大学時代のサークルの先輩(と言っても歳は同じ。ハーッ)の結婚式の2次会だったと記憶してます。
 Wさんか、懐かしいな、と思い、会社名と名前をネットで検索してみたらビックリ!偉くなってました。
 幕張メッセで行われたイベントの写真があり、そこで今のW先輩の姿を確認できました。白髪まじりの髪を長く伸ばし後ろで束ねてました。タダモノではない雰囲気が漂ってます。
 W先輩のギターの腕前は当時から群を抜いてました。私がW先輩だったら絶対プロを目指していたと思います。たぶん今でもギターは続けているのではないか、と想像します。機会があれば、ぜひ演奏を聴いてみたいです。
 今朝、懐かしくなって学生時代の写真を引っ張り出してみました。昔の写真や手紙は古いトランクにまとめて入れてあります。昔、上野駅で買った5000円のトランクです。
 久しぶりに見た昔の写真。みんな若かったな、とあらためて思いました。
 正直言って、大学時代にはあまり良い思い出はない、と思ってました。よく、授業にはほとんど出なくってサ、という話を聞きますが、それは文系だから許されることで、私のような理系学生が授業に出ないと、かなり悲惨なことになります。少なくとも私は悲惨でした。教室に居場所がなくなります。学部の同期で今だ連絡があるのはK君一人だけです。
 それでも、夏休みや春休みに軽井沢や那須や清里や館山に皆で行った時の写真がけっこうたくさんあり、それを見る分には充分楽しそうです。なーんだ、ちゃんと青春してるじゃないか。
 写真の中には、今でもたまに会う3人はもちろん、Wさんもいます。
 若い時は今思うとホントにつまらん事を気にして悩みます。傷ついてばかりいたなあと思いますが、写真の中の若き日の私は、そんな事オクビにも出していません。自分で言うのも何ですが、けっこうイイ顔つき
してます。おいおいもうちょっと自信持っても良かったんじゃないか、お前・・・と思わず写真に語りかけてしまいました。
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2012年12月18日

ヨコチンの思い出

 12月に入って初めて更新します。 タイトルを書いて、ちょっと卑猥かな、と思いましたが、残念ながらそういう意味ではありません。
 今から30年近く前の思い出です。
 大学から深夜アパートに帰ったら、鍵がありません。
 当時の私のアパートのドアは内側からカチッとボタンを押して閉めるタイプでした。つまり私は部屋に鍵を忘れたままロックして出かけてしまったのでした。夜遅く、大家さんを起こすわけにもいきません。どうしようと途方に暮れていた時、向かいの部屋のドアが開きました。
 「ひょっとして鍵忘れた?」と、巻き舌、三白眼の若い男。
 それがヨコチンとの出会いでした。
 ヨコチンはその夜、私を部屋に泊めてくれ、味噌煮込みご飯をごちそうしてくれました。
 これをきっかけに私とヨコチンの付き合いが始まりました。
 当時彼は、18歳か19歳。確か私より4歳くらい下だったと思います。
 名古屋から東京に出てきたばかり。日本拳法をやっており、それで世に出るのが彼の夢でした。
 たまに試合に出ると、翌日、顔がボコボコになってました。
 私にとってヨコチンはそれまで付き合ったことのないタイプの青年でした。三白眼という言葉は彼に出会って知りました。二言目には「絞める」「殺す」「引きずり回す」が口癖でした。愛読書は矢沢永吉の「成り上がり」でした。私も読まされました。
 就職活動中、某大手出版社に提出する履歴書や課題の作文を書いている途中で高熱で倒れ、提出期限が翌日だったため、仕方なくヨコチンに直接出版社まで持ってってくれ、と頼みました。
 帰って来たヨコチンは誇らしげに言いました。
 「沼田さん、絶対大丈夫、受かるから。俺、受付の女に、この人落としたら承知しねえぞってちゃんと言っといたから」
 ちなみに自慢ではありませんが、私、書類選考で落とされたのはその1社だけです。
 たまに、二人で新宿や渋谷に飲みに行きました。
 ヨコチンといると、それまでの大学での生活とはまったく違う世界を体験できました。何よりもヨコチンの昔話が面白かった。なるほど、都会(名古屋)の不良高校生というのはこんな生活をしているのか、と実に新鮮でした。
 ちなみにヨコチンというのは私が付けたあだ名です。「ったくもう、沼田さんだけだからね、俺をそう呼んでいいの」と言ってくさってました。
 お互いアパートを引越し、私が社会人になってしばらくしてから、音信が途切れました。確か1990年だったと思います。仕事から帰ると、ヨコチンから葉書が届いてました。モノクロの写真を加工したなかなかオシャレな葉書でした。どこかの建物の壁にもたれた横顔のヨコチンの傍らに髪の長い女性がいました。
 「名古屋に帰り、先日結婚してしまった」と書いてました。
 それからどうしたか・・・。電話したような気もするし、しなかったような気も・・・。何れ、その葉書が私とヨコチンをつないだ最後のツールでした。
 不思議なもので現在仕事の関係で名古屋とは密接な関係にあります。取引先の社長も代替わりが続き、ちょうど私より4歳下あたりの社長さんが多いです。ようするに皆、ヨコチンの同級生くらいです。明日もその年代の三州瓦の社長さんが2名来社されます。そんなわけでちょっとヨコチンの思い出にひたってしまいました。ヨコチ〜ン、元気か。
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2012年09月12日

宝来館の観世音菩薩

 根浜海岸にある宝来館。震災後、多くのメディアで取り上げられていました。 今日の話は、震災前の宝来館にまつわる個人的な思い出です。
 
 今から6,7年前でしょうか、暮れに用事があってカミさんと根浜海岸を訪れました。用が済み、二人、砂浜で冬の海を眺めていると、急に大雨が降ってきました。慌てて駆け込んだのが宝来館。
 そこで意外な「存在」に出会いました。
 その「存在」は人気のないロビーの一角に大切に祀られておりました。
 「これはもしかして・・・」
 その表情は間違いなく我が祖父・沼田三次郎の手によるものでした。観世音菩薩。なぜ、ここに?
 暖かい珈琲を注文すると、女将自ら持ってきてくれ「この菩薩ですが・・・」と私が切り出すと、
 「これは、遠野に瓦屋さんがあって・・・」と女将の口から祖父・三次郎の話が始まりました。
 それまで、宝来館と祖父の繋がりはまったく知りませんでした。

 観世音菩薩は津波の際も無事で、今も宝来館に祀られているようです。
 先日、カミさんが宝来館のHPを開いたら、菩薩の写真と、その菩薩が夜になると海岸を散歩する、といった記載がありました。大切にしてもらえてうれしいです。

 もうひとつ、思い出。
 戦略的逃亡生活終結後、それでもどことなく居場所がなくなったような気がしていた私は、9月の遠野祭りの日、あまり人に会いたくなくて、一人遠野を離れました。
 何となく海が見たくなり、宝来館に宿を取りました。
 翌朝、どこも行く当てがなく、車をヨットハーバーに止め運転席でぼーっと海を眺めてました。良く晴れた気持ちの良い日でした。
 と、その時、取引先である某大手ハウスメーカーのマークの入ったバンがやって来ました。はっとしました。
 その車からまたまた見覚えのある監理員が降りて来ました。オーッと思いました。
 その方はゆっくり波止場を歩き、ほぼ私の視界の真正面に立ち、しばらく海を眺めてました。もちろん私には気が付いておりません。
 私はどうしたか、と言うと、思わず席に倒れこんで身を隠しました。とっさの行動って自分でも訳が分りません。とにかく息をひそめてじっとしておりました。
 しばらくして車の走り去る音がしたので、私は身を起こしました。
 その監理員の方は、たいそう仕事が出来、我々業者への配慮も行き届いた非常にバランスの良い人間性を持たれた方です。その方の今まで知らなかった面を偶然垣間見てしまったのでした。
 
 その後、昼過ぎに釜石へ行き、「館」という喫茶店のカウンターでスパゲティを食べていると、後ろからヨッと肩を叩かれました。日頃お世話になっている設計事務所の所長さんでした。家族でいらしており、簡単なあいさつだけで奥の席に移動されました。

 一人になりたくて遠野から逃げて来たのですが、行く先々で仕事関係者に遭遇してしまう、バツが悪いというか、とにかく変な一日でした。皆から、気にせず建築業界に帰ってこいよ、と言われているような気がしました。

 以上、2008年の9月の出来事でした。根浜の海も青く穏やかで、昔と何も変わらず、これからも何も変わらないんだろう、いや、そんなことを思うことさえない日々の一コマでした。
 それから2年半後にこの地域を襲った大津波で、喫茶「館」も波にのまれました。設計事務所の所長さんも今だ行方が分かりません。あらためてご冥福をお祈りいたします。

 
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2011年11月25日

劇団員だった頃?

 のっけから?印でまたまたすみません。最近、お詫びしてから書き始めるパターンが多いです。
 私が劇団員だった?ってあまりに唐突というか、多分、親しい友人たちでさえ初耳の、私の知られざる過去です。
 それにしても、過去を振り返る文章が続いてます。どういう心境なのでしょうか?あまり自覚もなく、思うまま、意の向くままに書いてます。

 まあ、劇団員というか、ある演劇研究所の講座に半年ばかり通っていただけのことです。20代前半の頃です。別に、役者になりたいと思ったわけでがありません。演劇自体にもまったく興味はありませんでした。
 では、なぜ急に演劇を勉強してみる気になったか、と言うと、ある日突然、自分の肉体と精神を自分の思うとおりに操ってみたい、と切実に思い、もし、そういうことが可能であれば、人生のあらゆる局面を楽々と乗り切っていけるのではないか、つまり、人生という舞台で名優になってみたい、と思ってしまったからです。前提には、肉体も精神も自分のものでありながら、思うようにコントロール出来ないことに対する苛立ち、疑問がありました。極めて実利的、功利的な動機、かつ安易な発想です。
 その研究所のレッスンは私の求めていたものと近く、たいへん興味深いものでした。現在行っているヨガとも通じる部分があります。但し、ヨガはどこまでも内向的なのに対し、演劇のレッスンは自分の肉体を通し、内界(自分)と外界(他人)の両方を強く意識するところが大きく異なります。
 夜間、週2回(くらいだったかな?)のレッスンでは、深く極めるところまでは到底行き着けなかったし、今では学んだこともほとんど忘れてしまいました。首が左右に動くようになったので、正調「冗談じゃねえよ」もしくは「サンサンサンジュウダイはグロンサン」(分かるかな?)が芸としてできるようになったことと、多少、パントマイム的な動きができるのが、当時に名残りでしょうか?
 ただ、参ったのは、研究所の指導者の1人になぜか絡まれて「お前は役者なんか向かないからやめろ」と会う度に言われたことです。こちらは役者になる気など鼻からありません。「別に役者になりたくて来てる訳ではないので・・・」と幾ら言っても分かってもらえませんでした。舞台の千秋楽(一応卒業公演なるものをやった)後の打ち上げの飲み会を新宿の稽古場でやったのですが、その時もくどくどと言われ、何だろ、この人、と思ったものです。
 稽古場で徹夜で飲み、早朝、片付けを終えて、三々五々、散っていきました。男手が少なく、私は最後まで片付けを手伝って稽古場を後にしました。
 寒い季節でした。いつものように甲州街道を新宿駅まで歩きました。ちらちらと雪が舞い降りてました。その日はたぶん月曜だったと思います。ちょうど出勤の時刻で、駅からはスーツにコート姿の人の群れが流れてきます。圧倒的多数の群れの中、ただ1人逆方向に歩きながら、ふと、この風景って今の自分の人生を象徴しているのではないか、と感じ、急に不安と孤独感に襲われました。忘れられない朝です。

 そんな中、ひとつだけ暖かい思い出があります。
 ある夜の稽古からの帰り道、同じ研究生の男性に声をかけられました。おそらく30代半ばくらいでしょうか、とても穏やかで、知的な雰囲気のある方でした。
 「君は、小説を書いているの」と突然、切り出されました。
 勿論、小説など書いている訳がありません。面食らって「別に書いてませんけど・・・何故そう思ったのですか」という風に答えると、彼は、
 「この間の課題の時、ちゃんと要求に応えられていたのは君だけだった・・・・」と言いました。
 その課題というのは、二人の人間のある断片的な会話を渡され、男女1組になり、その会話を演じる。演じた後、その会話がなされた状況を説明しなさい、というものでした。
 私は、その会話文を読んで、あるストーリーを組み立て、相手の女性と良く打ち合わせして演技を構成しました。
 その後、順番に演技を発表して行ったのですが、確かに、会話のバックグラウンドにあるストーリーの構築までは皆、手が回らなかったようで、ほとんどが曖昧な説明で終わりました。実際に準備に与えられた時間は極めて少ないものでした。
 私は、とにかく頭をフル回転させ、あるストーリーを完成させました。客観的に判断して、ストーリー自体に面白みがあり、会話との関連も自然で、かつ破綻もないものだったと思います。我ながらよくあんな短時間で一遍の会話を発端に短編小説(のストーリー)を作れたものだと思います。
 彼は、その時のことをちゃんと憶えていてくれたのでした。
 「ふ〜ん、そうかぁ」と彼は、私の返事に、それでも納得がいかない様子でした。そして言いました。
 「でも、君からは、何かを創作する人間の匂いがするよ」と。
 
 ささいなことでも、それでも自分を認めてくれている人がいる、というのは心を暖かくしてくれます。人生の灯です。
 私にとってこの時代は、以前書いた「喫茶とと」と同時代になります。暗く、悩ましい時期でしたが、なぜかエピソードには事欠かない時代でもあります。そう言えば、1人、忘れられないヤツがいました。当時の私の相棒で、まさに漫画みたいなドタバタ・コンビでした。次回は、ヤツの話でも書きましょうか?
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2010年06月29日

強く念じた思いは必ず実現するか?

 将来を具体的に思い描き、紙に書き、その実現を念じて毎日その紙を見つめていれば、その思いは必ず実現する、とよく啓蒙書に書かれています。ナントカの法則と言うんですよね。
 私も思い当たることがひとつあります。中学時代から念じていたある思いです。
 普段、ひた隠しにして生きているのですが、実は私、けっこうミーハーです。
 忘れもしません。中学1年から2年になろうとする冬、あるテレビ番組で白いドレスみたいなのを着てピアノを弾いて歌った女性歌手に恋をしました。「雨だれ」というとても美しい曲でした。そう、彼女の名は「太田裕美」。2曲目の「たんぽぽ」も大好きでした。彼女の出身地、埼玉県の春日部市とはどんな町だろうと夢想しました。「最後のひと葉」「9月の雨」などシングル・カットされた曲はもちろん、LPの中にも大好きな曲がたくさんあります。ちなみに浪人中のBGMは「回転木馬」と「レンガ荘(漢字だったかな)」でした。
 大学時代、学園祭でサークル仲間と喫茶店をやったのですが、ワイワイと準備している時にFMラジオから「赤いハイヒール」が流れてきました。その時の何とも言えない良い感じ、分かります?仲間、共同作業、ラジオから太田裕美の歌声。もちろんそんな気分にひたっていることなどおくびにも出さず、もくもくと作業していたのですが・・・。
 後日、その仲間の1人で、その頃は特に親しいわけでもなく、どちらかと言えば、「要領のいい、軽いヤツ」という印象、要するに私の苦手なタイプと思っていたヤツと、なぜか急速に親しくなりました。学園祭からしばらくたったある日、彼が私に「こんなこと言うのすげー恥ずかしいしんだけど、学祭の準備の時さー、ラジオから太田裕美の赤いハイヒールかなんか聴こえてきたじゃん。あん時さー、オレ、なんかいいなーつうの?。みんなと繋がってるカンジがしてさ。けっこう感動しちゃってさー。まっ誰も憶えてないと思うけど。」と意を決したようにぼそっと(このニュアンス伝わるかな?)言いました。思わずはっとした私ですが、何と答えたか、と言えば「ふ〜ん、そんなことあったっけ?」

 コイツとは長い付き合いになりそうだな、と確信した瞬間でした。ちなみにこの彼は「銀座の夜」に出てくる友人の1人です。
 まあ、そんなわけで私の青春は太田裕美とともにあったわけです。


 時は流れ、1994年2月。私は広告業界に身を置くサラリーマンでした。私が担当していたクライアントがTVのCMソングを一新することになり、何本かのデモテープを作り、制作サイドで一押しだった曲が採用になりました。次に歌手の選考となりました。結果は?そうです。憧れの太田裕美さんです。
 録音の日程も決まり、私はワクワクドキドキ。ああ、空き時間にどんな話をしよう、絶対「レンガ荘」大好きでした、と伝えたいな、などど夢想しておりましたら・・・郷里から電話が入りました。祖父の容態悪化。すぐ帰れ。そうです。沼田製瓦工場・会長「沼田三次郎」こと私のジイサンが危ない、との連絡でした。急遽、休みをもらって帰省。バレンタイン・デーでした。その後、一旦東京へ戻りましたが、しばらくして再び会社に電話。祖父が他界した、との連絡でした。そして、通夜、葬儀の日程を聞いて愕然。なんと、太田裕美さんのスタジオ入りとぶつかってしまったのです!仕方なく、スタジオ立会いは同僚に引継ぎ、田舎へ帰りました。
 東京へ戻ると、同僚が私に太田裕美さんから私への色紙とCDを渡してくれました。スタジオのピアノの側で、けっこう長いこと語り合ったそうです。ちゃんとオレが「レンガ荘」好きだって伝えてくれた?井の頭公園にレンガ荘探しに言ったことあるって言ってくれた、と念を押しました。
 しかし、よりによってあのタイミングで死ななくてもいいじゃないか、と今でもジイサンをちょっと恨んでいる私です。
 こうして、太田裕美に会いたい、という私のミーハーな執念は、ジイサンの私を田舎へ呼び寄せたいというパワーに負けてしまった訳です。私が、東京を引き払い郷里に戻ったのはその1年半後でした。

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