2015年12月04日

たかがネコ、の話ですが・・・

 ひっそりとブログを再開します。テーマはネコです。
 今年の夏のある夜、場所は盛岡某所、カミさんと歩いていると路地で二匹の子ネコに出会いました。実に人なつこいヤツらでちょっとだけ遊んでやりました。
 翌日の昼、気になってもう一度その場所に行ってみました。ヤツらはまだそこにいました。我々の姿に気がつくとすぐに歩み寄ってきます。カミさんがかがみこんで指をぐるぐる回すとその動きにあわせて首を回し、しまいにはお腹を向けて寝ころび、じゃれまくります。実に無邪気で楽しそうです。
 「お前なあ・・・」と私は心の中でつぶやきました。「お前ら、明日をも知れぬ身なのに、通りがかりの人間にちょっと遊んでもらったからって、よくそんなに楽しそうにしてられるな。分ってんのかよ、自分の状況」
 遊び疲れると、そばの水たまりの水をペロペロと舐めます。
 「こら、そんな汚い水飲んじゃだめだよ」とカミさんが子ネコに言います。
 しかし、暑い日に喉が渇けば、コイツらはこうして水たまりの水を飲むしかないでしょう。何とも切ない思いが私の胸を満たしました。かといってコイツらを保護する覚悟は私にはありません。複雑な思いのままその場を立ち去りました。
 ちょうどその頃、会社の引越しが終わり、新事務所の前には、私のジイさんが作った焼物の河童やタヌキや鬼の面やらが大量に飾られておりました。敷地が狭くなり置き場所がなくなったため、とりあえず事務所の前に飾っていたのです。それらが通りがかりの人の目に触れ、欲しいという方が何人もあらわれておりました。そこで私は決心しました。これらを売り、売ったお金をノラネコの保護団体に寄付しよう、と。
 事務所の前で売りまくり、カミさんはバザーに出店しその会場に持って行って売りました。
 ある程度お金が貯まり、先日、カミさんがそのお金を持って盛岡のあるノラネコ保護団体が主催するチャリティ会場に行き、売上金全額を寄付させていただきました。そしてその会場での話です。
 保護団体の方曰く「実は先日、・・・でネコを保護してきたんです」
 ・・・とは、夏に我々が子ネコと出会った場所でした。
 もしや、と思ったカミさんがそのネコたちの写真を見せてもらうと・・・
 そうです。ヤツらです。白木の清潔そうなフローリング、そこに敷かれたカーペットの上で、二匹のネコがカメラを見上げています。
 カミさんからその報告を受け、心底良かったと思う私がいました。
 それにしても何という偶然でしょう。そもそも私が寄付を思い立ったのはヤツらとの出会いがきっかけでした。可哀想だと同情するだけで何もしない自分が不甲斐なく、せめてもの罪滅ぼしと思って寄付したら、そこにヤツらがいたわけです。
 ちなみに、ヤツらの名前は、オスがヒロシ(なぜか私と同じ名前)でメスがシーラだそうです。二匹あわせてヒロシーラと呼ばれているらしい。相変わらず怖いモノ知らずというか人なつこい性格らしく、すぐに貰い手がつくでしょう、とのことでした。
 今日は雪でした。ヤツらが寒い思いをせずにいると思うとほっとします。
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2014年01月20日

ダメ社長の雪かき日記

 たった今、敷地の雪かきが終わりました。 
 今の私にとって雪かきは完全なる逃避行動です。何からの逃避かと言えば、知的労働および決断からの逃避です。発注するオリジナル製品の寸法(径は8mmか7mmか、この部分の長さは50mmか60mmかなど)を決断できず、先送りにしております。その他、決めねばいけないことが決められず、う〜とうなっていると、目の前で深々と雪が積もっていきます。そうだ、そうだ、雪かきだよ、うん、雪かきしなくっちゃネ、と防寒着を着て外に飛び出します。
 但し、雪かきといっても甘く見てはいけません。
 面積は、少なく見ても2000uはあります。その雪かきを一人でやるわけです。
 もちろん、重機を使います。バケット付きのローダーです。
 弊社のローダーは操縦席がむき出しですから、寒いです。
 まず、隅っこの雪は雪かきスコップを使って手作業でかき出します。かき出した雪は出来るだけ一直線上に集めて置きます。
 それが終わると、いよいよローダー登場です。さっそうと操縦席に乗り込んで、エンジンをかけ出動。ガーとバケットで雪を押します。敷地内に3カ所程度、雪の集め場所を決めて、そこまで雪を押して運びます。
 ローダーの操縦に集中してる間は無心になれます。きりっとした寒さで頭の中がすっきりします。
 最後に、ローダーで押し切れなかった雪を、手作業で処理します。ローダーを寄せ、バケットにスコップで雪を放り込みます。それを雪置場に持って行ってガーっと空ければ完了。
 これで、職方の積込み、積み下ろし作業が楽になります。達成感です。
 しかし、肝心の仕事は・・・。
 やっぱり社長がこれでは褒められませんネ。
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2013年06月01日

いつもの朝

 当社の朝は7時10分ぐらいから始まります。工事業の朝としては決して早い方ではないでしょう。
 徐々に従業員が集まり、静かだった朝の空気が急に活気を帯びてきます。
 あいさつも人それぞれ、元気に「おはようございます」と言う従業員もいますが、まあ少数派です。普通の声や小声、中にはモゴモゴ言うだけの者もおりますし、お互い目礼だけの者もいます。
 やたら元気なあいさつを従業員に強制する経営者もいるようですが、私はあえてそれはしません。自然体で良い、と思ってます。元気な時は元気にすれば良いし、そうでない時はそれなりで良い。いつも目礼だけであいさつする従業員は私がもっとも信頼している職人の一人ですが、きちんを私の目を見て頷きます。彼との信頼関係を確認する毎朝の習慣でもあります。
 資材の積み込みで騒がしくなる一方、事務所は朝の掃除が始まります。床掃除、トイレ掃除、テーブル拭き、玄関マットの掃除など・・・。

 何度となく繰り返された朝の風景です。今日もこのようにして一日が始まりました。

 私はこの朝の活気が好きです。心配事や憂鬱なことがあっても、毎朝出勤してくる従業員の姿に励まされることが何度もありました。
 従業員一人々々だって、それぞれがそれぞれに悩みや心配事を抱えているはずです。
 それでも、朝になれば、屋根を葺くために皆が集まって、皆で準備をします。今日も明日も、明後日も、日々の営みは脈々と続いていきます。そう思うとなぜか涙が出そうになる時があります。

 先ほど皆が帰り、今日の仕事も終わりました。明日はゆっくりと身体を休めます。皆様もどうぞ良い週末を。
 
 
 
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2012年11月07日

奇跡のカツ丼

 当社の棟瓦施工法が発明協会の賞をいただけることになり、思えば社会人になって公式に人から褒められるのは初めてだな、と気づき、やっぱりうれしいです。  
 8月に棟補強金具の特許出願をしたのですが、実は引き続き3つ目の出願の準備を進めております。長年懸案だったある施工上の問題を解決するアイディアです。もちろんアイディア止まりではなく、その効果は模擬屋根で実証済です。即、現場で実施可能なのですが、権利取得のため出願が終わるまでは現場での施工も公開もできません。

 月曜は、瓦工事業組合の仕事で田老町へ行ってきました。帰りに宮古で昼食をとったのですが、その時食べたカツ丼の味が今だ脳裏を離れません。

 駅前の小さな食堂でした。店構えに惹かれ、のれんをくぐりました。
 カツ丼を注文し、厨房で働く店の方の様子をうかがっておりました。タマネギをきざむ包丁さばきが見事でしたし、動作も流れるようで、「これは期待できるかも」と思っているところに料理が来ました。
 一見してアレッと思いました。
 ご飯の上にカツがのっており、その上に玉子とタマネギをタレで煮た具材がのってます。つまりカツを玉子で煮てとじる一般的なタイプのカツ丼ではなかったわけです。
 カツを箸でつまんでみると、衣が薄くきれいに肉を包んでいます。ロース肉は実にジューシーでした。口に含んでおっと思いました。肉に下味がついている、実にいい加減の塩味でした。美味い、と思いました。
 タマネギを包んだ玉子はきちんと火が通っているのにやわらかく、まるであたたかい生湯葉のような食感でした。
 衣はサックリ、中はジューシーなカツと、独特の食感の玉子とご飯を、気が付けば夢中で食べてました。
 食後、店の方のお話を訊きました。
 戦前からのお店で、カツ丼は創業当時からこのスタイルだったそうです。ちなみに今の方は三代目とのこと。他のメニューも食べたくなりました。宮古に来た際はまた来ます、と言って店を後にしました。

 帰りは大槌町に寄らねばならず45号線を南下しました。

 途中、浪板海岸を通りました。美しかった砂浜はやはり無くなってました。
 震災前、最後に浪板海岸に来たのは、2010年の秋の初めでした。
 日曜の夕暮れに、砂浜で裸足になって砂と波の感触を楽しんだものです。闇と光が交差する時刻、波打ち際の透き通る水の色が忘れられません。
 
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2012年06月19日

子猫騒動その後

 昨日の朝、久しぶりにエンジニアのY君からメールが入り、何かな、と思ったら「その後、子猫はどうなった?」
 そうか、やはり気になるか・・・。仕方ない、書きましょう。
 基本的に子猫がどうしたこうしたなど私はどうでも良いですし、そもそもブログでそんな無意味なことを書くこと自体、私の主義に反しておりますことをあらかじめお断りしておきます。
 ハア(ため息)。で、子猫ですが、彼女(女の子でした)を保護した晩はヨガの日でしたので、会場である我が隠れ家では女性2名プラスカミさんと私の4人が居りまして、子猫はその4人の間を元気に駆け回ってました。女性2人とも猫大好きで、大喜びでした。子猫の鳴き声を聞きながら1時間のヨガを終え、その後もしばらく猫と遊び、名残惜しい思いで帰路に着きました。餌と水を確認し、灯を消してドアを閉めるとドアに駆け寄って来てみゅうみゅう鳴きます。実に切ないです。
 翌朝、様子を見に行くと、車の音でハッとするのか、入口のドアの格子ガラス越しに鳴き始めます。
 餌があまり減っておらず、どうしたのかな、と思ったのですが、すぐにカリカリ音を立てて食べ始めました。私が来たので安心して少し食欲が出たのでしょう。小さな頭を震わせながら餌を食べる姿が何とも言えません。
 板張りの床の上でしばらく遊びました。私の膝にツメを立て必死に這い上がろうとし、私の顔をじっと見つめます。止めて欲しいです。可愛すぎます。
 カミさんも午後に隠れ家の掃除をしながら遊んできたようです。階段の掃除機がけをしていると足元にやってきて、階段を一生懸命這い上がろうとするのだそうです。その姿がたまらなくかわいかったそうです。
 お別れはその日の晩でした。
 私の同級生兼我社の従業員O氏の奥さんと娘さんが夕刻、隠れ家に遊びに来て、子猫を気に入ってしまいました。めでたく子猫は正式な飼主と出会えたのでした。O氏の家には4歳のオス猫がおります。私たちが保護したままでは、毎晩、暗い中1匹で過ごさせねばなりません。O氏の元へ行けば、先輩猫もおり、さびしい思いをしないですみます。彼女の幸せを思えば、O氏に貰われて行く方が良いに決まってます。傍らで目を潤ませているカミさんをそう言ってなぐさめ、私たちは子猫にさよならを言いました。もっともO氏の家は我が家から1kmも離れていないご近所です。会おうと思えばいつでも会えます。実際、先日、会いました。ちょっと大きくなっていました。名前はモモちゃんだそうです。
 ちなみにカミさんのブログ「遠野の嫁っこ日記」では子猫の写真がUPしてるそうです。
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2012年06月06日

再び子猫を保護する

 また敷地内で子猫を保護してしまいました。朝、どこからか鳴き声がするので辿って行ったら、八幡神宮の裏参道の土手と当社の建物の間で縮こまってミーミー鳴いてました。助け出して水と餌を与えたら、後をついて来て離れなくなり、結局事務所まで連れて来てしまいました。道すがら、足元にまとわりついてくるので、何度か踏みそうになりヒヤヒヤしました。
 元気な子猫で走り回るわ鳴くわで仕事にならず、仕方なく私の隠れ家へ一時避難させ、念の為、動物病院にも連れて行き・・・と猫に振り回されるさんざんな一日となってしまいました。参ります。今日は一日事務作業にあてるつもりでしたが、お陰でほとんどはかどってません。まあ、たまにはこんな日もあるサ、と開き直ってブログを書いております。ちなみに子猫は生後1.5ヶ月くらいだそうです。親猫はどうしたのでしょう?
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2012年06月05日

夕暮れの風景が教えてくれたこと

 昨日はお取引させていただいている屋根材メーカーの営業の方が2名様で来社されました。盛岡に宿を取り、翌朝1番で東京に戻り、本社で会議とのこと。施工現場を4件ほどご案内した後、このまま盛岡で1杯やりましょうか、となりました。
 396号線を盛岡に向かい、南大橋の交差点に着くと、ちょうど夕日が美しい頃合いでした。正面の岩手山のシルエットと、夕日にきらめく北上川。国道4号線を少し混み合った車の群れがゆっくりと流れています。カーステレオからはチェット・ベイカーの枯葉が流れ、まるでドラマのエンディングを演じてるような気分になりました。
 信号待ちをしながら、その穏やかな風景を眺めていると、色んなことがあるけれど、世の中はこうして秩序だって平和に流れているのだ、とあたらめて実感しました。そして、この秩序だった穏やかな風景を支えるために多くの人々が日々関わっているのだな、とも。道路や橋を作る人たち、橋の上を通り過ぎる車を作る人たち、その車を動かす燃料を供給する人たち、遠くに見えるビルやマンションを建てる人たち・・・。この穏やかな秩序ある世界は、そうした一人ひとりの真面目な行為がそれこそ気が遠くなるほど積み重なった成果として存在しているわけです。そのどこかに自分も関わっているのだな、と実感すると人生の意義って案外そんな単純なところにあるのでは、と思えてきました。例えば車を構成しているネジ一個を自分が(自分の会社が)作っているんだ、言えること。それって生きる動機として充分ではないでしょうか。 
 震災後、社会との関わりを失い、今だ回復できぬまま生きてる方々が多いのでは、と感じる時があります。あらためて身の回りを眺めて、ひとつひとつのモノの存在をかみ締めて欲しいです。そのモノが今なぜあなたの目の前にあるのか、よく考えてもらいたい。どれほど多くの人々の手を経て、それが今、あなたの目の前にあるのか、を。人生が少し愛おしく、人ってなんて健気なんだろう、という気分になりませんか?
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2012年04月06日

不可思議な夢

 4月4日の暴風は凄まじかったです。修理依頼がかなり来ており、急遽、工事予定を変更し3班が修理専属で動いてます。修理をお待ちのお客さんはもう少々お待ちください。当社の倉庫も被害を受けておりますが、まだ手付かずです。それにしても自然災害が多すぎます。どうしたことでしょう?
 1月末から私の周囲で奇妙なことがたてつづけに起こっていることは何度か書きましたが、今日もその続きの話です。
 4月4日の晩、というか4月5日の夜明け前というか、奇妙な夢を見ました。
 私は、遠野の駅前でバスに乗って自宅へ帰るつもりのようでした。なぜ、バスに乗るのかよく分りません。膝の上にはマジソン・スクエア・ガーデンのバッグ(分る人は何人いるか?)を抱えています。中には大金が入っているようでした。どうやら私は長年懸案のある件を解決し、家に帰るところのようです。バスのシートに座り、私は充実感と幸せを感じてました。家が近づきましたが、あまりにバスのシートが心地よく、私は自分へのご褒美に、もうちょっとバス旅行を楽しもう、と思います。八幡神宮前のバス停(我が家の最寄)を乗り過ごし、その先へと私はバスに揺られて行きました。窓の外の風景は現実の風景と違い、きれいな夕焼けと草原が広がっています。次の瞬間、気がつくとあたりはとっぷりと暮れてました。どうやらバスはターミナルに入ってゆくようです。暗闇の中に、何台ものバスが並んでいるのが見えました。ヤバイ、ヤバイここで引き返そうと私は思います。外は灯はまったくなく、ターミナルの建物は洋風の急勾配屋根で、ヨーロッパ風に見えました。私の乗ったバスはそこを巡回し、止まらずにそのまま商店街へ出ました。その商店街はどこも軒先に灯を灯し、狭い通りを明るく照らしてました。その明るさにほっとするとともに、遠野のはずれにこんな商店街があったのか、と不思議に思った瞬間、「ピッピピ、ピッピピ」という甲高い音に目を覚まされました。目覚まし時計が鳴ったのでした。いつも6時になるようセットしてあるのですが、カーテンの隙間の闇はまだ暗く、カミさんが「えっもう6時なの?」と言ってテレビを点けたら・・・まだ夜中の2時過ぎでした。
 変だな、と思って目覚まし時計(電波時計)を見ると、ぜんぜん違う時刻を表示してます。
 「変な夢を見てた」とカミさんにさっきまで見ていた夢の話をしました。
 「もし、目覚ましが鳴らなかったら、夢の世界から帰ってこれなかったりして・・・」とカミさんが言いました。
 
 実際、あの時目が覚めなかったら、夢の続きはどのようなものだったのでしょう。私はいったいどんな世界に迷い込んだのでしょうか。非常に興味があります。
 目覚まし時計はいつの間にか正常に戻って、今は正確な時刻を表示してます。
 
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2012年03月21日

ニューヨークからの電話

 先日の日曜、隠れ家で過ごし、帰りがけに携帯を見ると奇妙な表示が。「通知不可能」
 非通知設定なら分りますが通知不可能とは?しかも呼び出しは1秒で切れてます。着信音が鳴った憶えもありません。
 ここ1ヶ月以上、奇妙なことが立て続けに起こっており、またか、と思いました。
 翌月曜、盛岡での工程会議が終わり車に乗り込んで会社へ電話しようと携帯を取り出すと、またまた2件「通知不可能」の着信が入っておりました。気味悪く思いながら会社に電話すると・・・「誰か分ったよ!」とカミさん。「あなたのニューヨークのお友達、スカイプ使ってたんだって。さっき会社に電話があった。メルアド教えといたよ」とのこと。
 ニューヨークに友達なんていたっけか?と思った瞬間、懐かしい顔が浮かんできました。Mです。Mとは小学6年から高校まで同級生として過ごしました。仲が良くなったキッカケは音楽でした。
 私は子供の頃から家にギター(クラシック・ギターというよりガット・ギターと言った方が合っている)があり、小学生の頃から遊びで弾いており中学校に入った頃には「禁じられた遊び」はもちろんフェルナンド・ソルの「月光」とかフランシスコ・タレガの「ラグリマ」や「マリア」が弾けるようになっておりました。独学で楽譜も読めるようになっており、フォークのアルペジオを使った伴奏などはほとんど初見で弾けました。但し、同級生の前で弾くことはなく、誰も私がギターを弾けることは知りませんでした。
 中学3年の秋、Mがギターに興味を持ちました。行動派の彼は音楽室の倉庫にクラシック・ギターが置いてあるの発見し、その倉庫の鍵を開ける方法もあみ出して、ある日音楽室に侵入しました。なぜか私も連れて行かれました。それから2人で休み時間になると毎日、音楽室に侵入し、思い思いにギターを弾いて遊んでいました。私としては、人前でギターを弾く快感を初めて知りました。そのことがキッカケで卒業式の後の謝恩会で、教師と卒業生全員とその父兄の前で演奏を披露するハメになりました。中学校の体育館のステージが私の初舞台となったわけです。
 高校3年。部活を引退した秋、Mはバンドを組んで活動を開始しました。同級生の間ではそのメンバーに私が入っていたと勘違いしている連中が多いですが、誤解です。ちなみに私が東京時代「東京乾電池」で脚本を書いているというウワサが流れたようですがそれもガセです。
 その後、2人とも東京に出て道は分かれましたが、確か私が大学の3年?の頃、正月で帰省していたところMが袋いっぱいのリンゴをぶら下げて突然やってきました。コタツにあたって代わる代わるギターを弾き合いました。当時のMはジャズ寄りのフュージョン系の音楽を目指してました。パット・メセニーがいちばん好きで、その日もたくさんテープを持ってきてこれを聴け、あれを聴けとお気に入りの演奏をさんざん聴かされました。夕方、飲みに行こうと街へ歩いて向かいました。
 その道すがら、Mがニューヨークへ行く、と言い出しました。向こうで音楽に人生を賭けたい、ということでした。
 同級生が働いている駅前の飲み屋へ行き、そこへ一人また一人と同級生たちが集まり、最後は7〜8人になってました。店が閉まるまで飲み続け、深夜の雪が舞う通りをぞろぞろと歩いて帰りました。その中の一人が何か私にちょっかいを出し、その時T(今は遠野で大成功しているジンギスカンの店の経営者)が「やめろ!沼田はな、早稲田行ってんだぞ。俺らの誇りなんだぞ」と怒鳴りました。そして大声で「早稲田!早稲田!」と何処で憶えたのか「都の西北」を歌い出しました。当時、音楽サークルの活動を言い訳にしてほとんど授業に出ていなかった私はTに「やめてくれ」と小さな声で言いました。
 その夜、Mは私に新宿のバーのマッチを渡し、新宿で静かに飲みたくなったら行ってみろ、と言いました。「スティック」という店でした。
 
 間もなく、宣言した通り、Mはニューヨークへと旅立ちました。

 MのHPがあり、5年ほど前、お前の事書かせてもらったぞ、と言うのでのぞいて見たら、ほんとにさくっとした内容で、わざわざ言うほどのことないじゃん、と思ったのですが、良く見ると英語版のページがあり(というかこちらの方がメインだった)、Mのプロフィールのページの最初に中学時代の私との思い出がしっかりと書かれてました。
 Mとは音楽室でさんざんギターを弾いた後、放課後、私の家の応接間のステレオで、よくクラシックのレコードを聴いてました。当時、私はバイオリンにも興味があり、安いバイオリンを買ってもらってました。ギターと違いバイオリンは独学ではどうしようもありません。それでも「シェルブールの雨傘」のメロディーを何とか弾いたりしながら遊んでました。クラシックのレコードもハイフェッツやオイストラフのバイオリン協奏曲が多かったと思います。私自身忘れかけていた思い出でしたが、Mにとっては特別な時間だったようで、彼から見たその時の様子が英文で語られてました。友人の記憶の中にそのように残れることの幸せを感じました。

 そのMが、ついにニューヨークを引き払う決心をしたようです。
 電話は午後6時過ぎにかかってきて、8時過ぎまで話しました。こちらは寒い夜でしたが、向こうはパープル色の夜明けの景色を眺めながら話していたのでしょうか?
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2012年02月15日

ひょんなことから市民演劇に関わる

 今日も寒かったです。先ほど帰った職方たちは、とにかく顔が痛かった、皮膚が露出している部分は防寒出来ない、と嘆いて帰りました。
 2月が仕事で埋まること自体は有難いのですが、この寒さで一日屋根の上にいる方はたまったものではないでしょう。経営者として胸が痛みますが、こればかりはどうしようもありません。実質、あと2週間の辛抱、と声を掛け合って帰って行きました。春が心底待ち遠しいです。

 ひょんなことから遠野の市民演劇に関わることになりました。カミさんが美術の市民サークルに顔を出したのをキッカケに、市民演劇の舞台の美術製作のお手伝いをすることになったのですが、今回は特に人手が足りず、たいへんそうでした。見兼ねて先週から私も仕事を終えた後手伝い行ったのが始まりです。ちなみに遠野の市民演劇「遠野物語ファンタジー」は、確か私が中学の頃に始まり、恒例となって現在に至ります。開催時期は毎年今頃です。
 そうこうしているうちに昨日カミさんが発熱、インフルエンザA型でした。よって私も時間の問題かもしれません。今日もこれからお手伝いに行きます。ちゃんとマスクをして行きます。明日は瓦工事業組合の総会、明後日も外せない予定が入っております。ヤバイかもしれません。そんなわけで、今日はここまで。
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2012年02月11日

銀座の夜、再び

 ここしばらく色んな文章を書いてました。いちばん気が重かったのか「建築士いわて」という岩手県建築士会で毎年1回発行している冊子の原稿でした。コーヒータイムという欄の自由に書いてよい記事なのですが、期限が迫っていたので、このブログの「逃亡生活のススメ」と「十年後、誰が現場で汗を流すのか?」をリライトして送りました。字数制限があったので、かなり大幅なリライトになり「十年後・・・」に至ってはほとんど全文書き直しになってしまいました。どちらか趣旨に合った方を選んで掲載してください、と書き添えて送りましたが、はたしでどちらが選ばれるでしょう?

 さて、久しぶりに東京で大学時代の友人と会いました。カミさんも一緒に上京し、彼女の方は会社員時代の同僚と飲んだようです。私は銀座、カミさんたちは蔵前。こちらは待ち合わせ場所と時間だけ決めてあとは行き当たりばったり、カミさんたちは事前に綿密に打合せし、気の効いたお店を予約し出陣。だいぶ差がありますね。
 案の定我々は、店が決まらず、銀座をブラブラ、築地まで歩きました。結局、仲間の1人が行き着けの居酒屋へ。
「ただの居酒屋だからな」
「タダ(無料)だったらいいじゃん、最高じゃん」
「まあ、別な言い方をすれば、単なる、って意味のタダだけどな」
「今日、沼田のカミサンは?」
「蔵前で飲むんだって」
「ふ〜ん、相撲もするの?」
「ところで I、出世の秘訣は?」
「可愛らしさだよ」
と、いつものノリでお互いニコリともせずにジョークを飛ばしあって寒空の下を歩きました。
 着いた居酒屋は、初めて来たとは思えないほど落ち着く良い店でした。料理も実に美味い。ビジネス街の土曜なので、お客は我々3人だけ。しばらくして美人のママさんもテーブルに加わって飲みました。なぎらけんいちさんが常連で、誕生日はいつもこの店でやるんだそうです。居酒屋のカウンターがいちばん似合う男なぎら氏が常連であれば、良い店に決まってます。そのせいか傍らにフォーク・ギターが置いてあり、昔を思い出し、皆でちょっと爪弾きました。私の腕はすっかり鈍っていたのですが、仲間の I は昔よりむしろ上手くなっていました。自分で言うのも何ですが、この歳になってパラパラっとギターが弾ける男たちって、けっこうカッコいい、と友人を見て素直に思ってしまいました。ママさんも大喜びでした。
 まあ、大学時代の友人同士が中年になって語り合う話です。とてもここで書ける内容ではありません。
 今回は2年半振りに集まったのですが、これからはもっと頻繁に集まろう、と別れ際に I が言いました。洋楽と小林克也が好きで、人の真面目さをちゃかして生きるのが信条だった彼にしては妙にウェットな発言でした。世間からみれば、I は成功者、大成者と言って良い地位にあります。そう言えば、今回の飲み会の呼びかけは I でした。彼の中で何かが変わったのかもしれません。50歳を目前に、男たちの心情は、複雑かつ深い、です。
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2012年01月07日

穏やかな年始です

 2012年がスタートしました。
 と、書き出して、いきなり昨年の話をします。最初に断っておきますが、ほとんどどうでもいい話なので、忙しい皆様におかれましては読まない方が良いと思います。
 年末の日曜に髪を切った直後に発熱。翌朝の会社の朝礼と朝ミーティング後にダウン。早くも戦線離脱。年末の最低限やって置かなければならないことは済んでいたのでまだ良かったのですが、医者から貰った薬を全て飲み終えても微熱が引かず、31日に当番医のN医院に行って「微熱が引かない、結核ではないですか」「くしゃみが止らないところを見ると、風邪ではなく何かのアレルギーでは?」とやったものだから(いちばん医者から嫌われるタイプ)、案の定「君ねえ〜」とN医師にたしなめられ、仕舞いに「長く薬を飲み続けているので、胃腸薬も・・・」と口を滑らせてしまい、「まっそれは今回処方する薬を飲んでみてから決めまショ」と話をシャットダウンされ、診療室を後にしました。
 その後も微熱が引いたり出たりを繰り返し、ただ体調は少しづつ良くなり、正月2日から馴染みの温泉民宿で2泊3日の湯治。実によく眠れました。この宿の風呂は、湯に浸かると湯船の縁をかけ流しのお湯がなめらかに溢れていきます。いつも湯の中で存分に身体を伸ばし、ゆっくりと何度も首を回して全身をほぐしていきます。
 部屋に戻り、花輪莞爾の「悪夢百一夜」。とんでもなく分厚い本ですが、この本の正しい読み方(読む体勢といった方が合ってる)は、まず、畳の上にマットと布団を敷き、枕を布団の上でなく畳の上に置いて、布団にうつぶせになって、顎を枕にのせます(分かります?)。本は直接畳の上に置くと、目と本の距離がちょうど良くなります。この時、両手の掌を顎の下に敷き、本との距離の微調整をします。すっと伸びた背骨が若干反り返りますが、まずまず楽な体勢と言えるでしょう。家ではベッドなのでこの体勢が取れません。
 そうしてしばらく至福の時を味わいました。花輪莞爾はやはり天才です。
 休みの最終日にN医院の薬も飲み尽くしました。体調は、と言うとちょっと?気味。
 昨日が仕事始めて、年始の安全祈願、年始まわりをしてる間に、やっと普通の人間に戻れました。夜はいつものヨガ。
 おかげさまで今日は快調です。発熱の後って全身の体液が入れ替わった様な気がして、不思議な爽快感があります。
 以上、どうでも良い話を終わります。最後まで読んでくれた方にはたいへん申し訳なく思います。今年もよろしくお願いいたします。
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2011年09月29日

夢か現実か?

 今日はぼーっとしてほとんど仕事になりませんでした。提出期限の迫る見積りがたまっており、ホントはブログを書いている場合ではないのですが・・・。
 原因は寝不足とお酒です。
 こう書くと、私を知る人はえっと驚くと思います。
 私は周りの皆さんから、お酒もタバコもギャンブルも一切やらない、品行方正、穢れを知らぬ堅物と思われております。
 そんな私でも、稀にお酒で午前様があります。
 ご一緒したのは愛知県の瓦メーカー(いわゆる三州瓦)の若き社長K氏です。
 K氏も震災後、たいへんな日々を送っておりました。
 電話やメールで、早くこの非常時を脱して、一杯やりたいね、とお互い願望を話していたのですが、実際は当分無理だろうと思ってました。
 その彼が、昨日、突然、遠野に出没したのは、もちろん事情がありますが、長くなるので割愛。
 何れにせよ、夢の一杯が思いがけず実現し、ちょっと感動でした。で、気がついたら午前2時。
 8時から飲み始めたのですが、信じられないほど早く時間が経ち、二人とも唖然としました。
 「ウソだよね」
 「みんなで僕らを騙そうとしているにちがいない」
 「だってほとんど話してないし、カラオケだって2曲しか歌ってない」
 「そもそもニュートリノが光速より速いってあたりから騙され始めた気がする」
 などど、酔っ払い二人、フラフラとホテルにたどり着き、フロントで
 「で、ホントは何時?」と訊いたら、
 従業員のお兄さんはニッコリ微笑んで、
 「間違いなく2時ですよ」と言いました。
 それでも、世界が私たちを騙している、という確信は揺らがず、歯を磨いて寝ました。
 
 結果、声はかすれ、眠くてボーっとする朝を向かえました。
 思い返しても6時間も飲んで話した実感はまるでありません。実に不可思議な体験です。
 ホントにK社長はやってきたのでしょうか?
 私はまだ夢をみているのではないでしょうか?
 このブログは現実世界で書いているのでしょうか?
 おやすみなさい。 
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2011年09月16日

人生の灯

 9月14・15日は遠野八幡宮のお祭りでした。
 15日が敬老の日で祝日だった頃は、このお祭りは市民総出でたいへんな賑わいでした。遠野にこんな人がいたのか、と驚く人出でした。観光客もたくさん来ました。
 ところが、15日が祝日でなくなってから、様相が変わりました。
 遠野八幡宮のお祭りは当然ながら、従来通り14・15日に行われますが、市は、それとは別に秋祭りを週末の連休に行うことにしたためです。
 祭りがふたつに分かれてしまったことで、高揚感が薄れてしまった気がしているのは私だけではないでしょう。官僚のみなさん、頭デッカチな政策で、ひとつの町から大切なものを奪った罪の深さに、早く気づいてください。

 先日、久しぶりに地元のある建設会社に見積りを持ってお伺いしました。
 帰る時、事務の女性の方から、「あの・・・ブログ読んでます」と声を掛けられ、ギクリとしました。どうやら、カミさんのブログを読んでいて、そこから私のブログへ来てくれたようでした。
 不意のことで、アドリブに弱い体質ゆえ、必要以上にうろたえ、何やら訳が分からぬことを口走って逃げるようにその会社を出ました。
 帰りの車の中で、じわじわと嬉しくなってきました。心にぽっと灯がともったような気分でした。

 相手の方の何気ない一言に救われることってありませんか?

 思い出すのは、数年前、確か秋の終わりの日曜の夕暮れでした。私とカミさんは、盛岡の中津川沿いの遊歩道を歩いてました。
 当時、私たちは仕事やその他のことで悩みが重なり、気を落としていました。
 その時、天使は現れました。
 彼は、自転車に乗り、サラサラの髪の毛を風になびかせ、自転車の前のカゴには、彼の小さな息子さんを乗せて走ってきました。久しぶりの再会のあいさつの後、彼がつぶやいた一言「沼田さんたちって・・・」。
 その一言で、落ち込んでいた私たちの気持ちがどれだけ救われたことか。
 モノの見方っていろいろな角度があると思いますが、なるほど、その角度から見れば、自分らはそう見えるのか・・・。
 立ち去る彼の背中に、夕日を映す大きな羽が見えた気がしました。

 逆に、私が発した一言もしくは行為が、相手の心に火を灯したこともあったと思います。実を言えば、「人生に灯が灯った」という言葉は、かつてある人から言われた言葉です。

 辛いことが多いです。時にはどうしようもなく落ち込みます。そんな時、解決の糸口は外部ではなく内部、自分の心の持ち様ひとつだったりするのではないでしょうか?それは、予告なく訪れ、あまりにささやかで、それでも確実な強さで私たちを再生させてくれます。
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2011年07月08日

死に対する姿勢

 今日は仕事でヘマをし、お取引先の電気工事店さんに急遽フォローをお願いいたしました。忙しい中、大槌から釜石まで快く駆けつけてくれたKさん達に本当に感謝です。一応電気工事士の資格は持ってますが、日頃、現場で作業をしている訳ではないので、無理すべきではありませんでした。面目ない、と落ち込んでいる私に「大丈夫、たいしたことじゃないから、俺らでもたまにやるから!」と励まされ、空気がパッと明るくなりました。会社も被災され、大変な状況のはずなのに・・・と書いていてあらためて胸が熱くなります。

 さて、今日のテーマは「死」です。
 私は1995年の11月13日に遠野に帰り、今年でもう16年になります。東京生活が15年でしたから、今年でそれを超えました。
 この16年の間に、私の周りでは、多くの方がお亡くなりになりました。東京時代に比べ、高齢者が多い、私が中年になった、など条件が変わったせいもありますが、それだけでは説明にならないほど死を身近に感じた16年だった、と思います。
 帰ったばかりの頃は、昔から知っている方々と次々に遭遇し、なんだ、田舎は時間が止っているようだな、高校時代とみんな変わらないじゃないか、と思ったものです。そして、そんな変わらぬ世界がこの先もずっと続くような気がしました。
 それが錯覚と気づいたのは間もなくでした。
 事故、自殺、病気と、1人また1人と知人たちが亡くなって行きました。田舎においては、死は実に日常的な出来事です。私自身、一度、転落事故を起してます。一歩間違えば死んでました。実はあの時私は死んでいて、今、こうしているのは私という霊魂が見ている幻覚なのでは、と思うことがあります。映画にもなった「シエスタ」はそんな話でしたね。ジェーン・バーキン(という名前だったかな)がイカシテました。
 そんなこともあって、いつしか私は死に対してどこかさめた態度を身に着けてしまったような気がします。常に「死ぬ」ことを前提にして物事を考える習慣もつきました。だから、自分に死が訪れても、受け入れる準備はいつでも出来ている、とまで思っていました。
 今、その思いがぐらついてます、というより完全に崩壊してます。
 知人が、癌を宣告されました。自分から望んで宣告を受けたそうです。その方は、抗癌剤治療を拒否し、残りの時間を奥さんと二人で、大切に生きることを選択されました。いつか行きたいと望んでいた場所へ、二人で旅行などされています。
 そのことを知り、私だったらどうするだろうと自問しました。答えは、思いがけずすぐに、かつ意外な姿でかえってきました。
 私が、癌になったら、間違いなく、治療に全力を尽くすだろう、そう私の心は叫んでました。あの手、この手と試み、調べ、行動し、金銭の許す限り、みっともないまでに悪あがきをする、それで良い、と迷いなく思いました。
 治療を拒否する、ということは、すなわち延命の可能性を0にすることです。一方、治療を試みることは、生への可能性が存在し続けることです。たとえその可能性が限りなく0に近かったとしても、無ではありません。
 その可能性の存在を捨てることなど、まさに死ぬまで私は出来そうにありません。
 「可能性」とは、まさに生へのモチベーションです。これが無くなった時、人生は終わります。
 「可能性」には様々な形があります。若ければ若いほど「可能性」はその種類、質とも無限にあり、年齢を経るごとに限定されていきます。それは必ずしも悪いことではなく、むしろ人生を楽にする、というか居心地の良いものに変えてくれる、という効用もあります。
 そして、人生において最後の可能性は、生きることそのものになります。自分には明日が来る、という可能性です。幾らかでも、気分の良い状態で、明日の太陽を浴びる、雨の匂いをかぐ、雪を見つめる、その可能性。
 それでも、最期は、力尽きるでしょう。もちろん、やむを得ないことです。でも、力尽きるその時まで、可能性の存在は消したくない、と明確に思う私がいます。
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2011年05月13日

倉庫で子猫が生れる

 参りました。数日前の朝、工事部部長、次長が段ボール箱を持って事務所に来るなり、「参った〜。資材置き場に猫いたじゃい」と言いました。なにっと中をのぞくと小さな毛玉がもにゅもにゅ動いています「じゃじゃじゃ・・・」と頭を抱えました。2匹はまずまず元気、1匹はやせ気味、もう1匹は死産でした。死産した1匹は敷地内の栗の木の下に埋め、3匹はカミさんが近所の動物病院に連れて行きブドウ糖を飲ませ、粉ミルクの飲ませ方を教わってきました。動物病院の先生は無償で診てくれたそうです。ありがとうございます。
 基本的に、私は猫がどうのとか、かわいい、とか人様の前で言ったり書いたりするのは正直言ってかなり嫌な方で、したがってこのブログでもそもそもこんな話題を書くのは、ある意味、禁を犯していることにもなり、恥ずかしい、というか悔しいです。
 で、発泡スチロールの小箱にタオルを敷いた寝床に三匹をいれ、ミルクを注射器で飲ませた後、「さて、どうしょう」とカミさんと途方に暮れてました。もちろん業務はあわただしく進行中です。「なつかれたらたいへんですよ」と電話をさばく合間にNaoちゃんが言います。「冷たいヤツだな〜」と力なく言い返します。
 そこに現れました、窓の外。親猫です。急いで発泡寝床を持って事務所を飛び出す私。当然のように逃げ出す親猫。それでも気になるようで立ち止まります。私はそっと発泡寝床を置いて、その場を離れました。しばらくすると親猫がやって来て、1匹くわえて走り去りました。いちばん元気だったヤツを連れて行きました。そしてもう1匹。最期に残されたのは痩せた末っ子猫です。心細そうにふるえてます。元気の良いものから順に救うんですね。動物の世界は非情です。「コイツ、見捨てられたんじゃないか・・・」と不安に思いましたが、大丈夫、最期はちゃんと連れてってくれました。
 彼らの次の棲家も別の資材置き場でした。親猫のいないスキを狙って、ひとまわり大きな発泡寝床を用意し、親猫の餌を置いていたら、そこで暮らしてました。カミさんと、ときどき様子を見に行っては、子猫にミルクをやったり、頭をなででやったりしてました。末っ子(と勝手に位置づけてますが)のいちばん痩せたヤツが、実はもっとも騒がしいです。いつも他の2匹が身を寄せ合ってスースー寝てる上から覆いかぶさるように寝てます。その背中が寝息で上下に動くのを見ていると、何とも言えない気持ちになります。ここに確かにひとつの命がある、と実感します。
 思えば、その時がもっとも我々の幸福な時間でした。私のある不用意な行動の結果、その幸せは失われました。後悔してもしきれません。目の前が涙でくもってきたので続きはまた後で書きます。放射線量は異常ありませんでした。
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2011年04月24日

3月10日の晩はどう過ごしてました?

 今日の遠野の放射線量は、いつもと変わらず0.12〜0.11μSv/hでした。
 さて、皆さんは3月10日の晩はどう過ごされていたのでしょう?私たちは「深夜食堂」の最終話をDVDで観てました。
 今でもあの晩のことはよく思い出します。翌日にあんな悲劇がおこるなんてまるで知らず、無邪気で幸せでした。
 多くの方が私たちと同じいつもの晩を過ごされていたのでしょう。津波の被害にあった三陸沿岸部の方々も同じだったと思います。まさか、明日に家族を、家を、財産を失うことになるなんて、誰が考えたでしょう。
 3月11日を境に世界は変わった、と人は言います。私も家族も心からそう思ってます。何よりも私たち自身が変わってしまいました。私の場合、ほとんど書物を読む気になれなくなりました。情報集めのため活字に目を通すことはありますが、以前のようにそこから楽しみを得る感覚は薄れてきたような気がします。
 「深夜食堂」にも、何となくそんな不吉な影が染み付いてしまったようで残念です。
 もうすぐ八十八夜ですね。遠野に帰ってから、この季節がいちばん好きになりました。春に向かうよろこびと、花冷えの独特の寒さがどことなく透き通るようなさみしさを感じさせて、なんとも言えず好きでした。こんな気持ちで、この季節を迎えたくなかった、と思います。
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2011年03月27日

輪廻転生とカースト制度

 昨日は一日事務所番してましたが、思ったより電話、来客が少なかったです。午後に、愛知県の瓦メーカーの仙台支店の方が2名いらしてくれました。髭面で防寒服といういでたちで、はじめ誰かわかりませんでした。聞くところによると支店も浸水し、家のライフラインもまだ不備で、4日間風呂に入ってないとのこと。それなのにお見舞いと瓦の概算オーダーを取りに来てくれて、本当に頭が下がります。
 私も今回、久しぶりに電気のない生活をしなければなりませんでしたが、平常心を保てた理由のひとつにヨガがあったような気がします。
 まだ、始めたばかりのほんの初心者ですが、朝夕に深い呼吸をゆっくりと行いながら、ポーズをとっていると気力が満ちてくるような気がしました。特に「兵士のポーズ」というのがお気に入りで、これを左右行っていると体調が整ってくる実感があります。
 ヨガと言えばインドですが、しばらく前に、少し歴史の知識を整理しようと山川出版の「世界史詳細」を読み始めたのですが、インダス文明のところに興味深い記述がありました。「インドに古くからある輪廻転生の思想がカースト制度の維持に繋がっていた」という文章です。その瞬間、頭の中がスパークしました。
 これ以降の文章は、書き手である私の人間性が問われる内容になります。お前はそんな非人間的なヤツだったのか、と言われるかもしれません。が、恐れず書き進めます。
 カースト制度について正確な知識はありませんが、大雑把に言って人間は生まれながらにして階級が決まっており、その人間の能力、努力に関係なく、一生その階級の中で生きなければならない、職業もその階級ごとに世襲されていく、といったものだったと思います。そして、この一見夢も希望もないようなこの社会システムを支えているのが、すなわち「輪廻転生の思想」―生は魂の修行の場であり、各々がその階級での生をまっとうすることで次の階級へ生まれ変われる、正しく生きれば、来世において階級をステップアップできる、というものです。したがってそこに職業選択の自由はありません。
 これは、一見非人間的に見えますが、よくよく考えてみれば実に合理的な制度です。
 今の日本の現状と照らし合わせてください。大学生は就職難と言われておりますが、1990年と比べ、企業の大卒求人数は20%増えているそうです。それでも就職できない理由はふたつ。ひとつは大学新卒者の数が1990年と比べ60%増えていること。もうひとつは大学生が有名企業、上場企業にしか目を向けていないためです。若者の絶対数が減っているのに大卒者の数が160%とは驚きの数字です。つまり、今の若者は、自分の能力以上の職を希望し、職の選り好みする者が多すぎる、と言わざるを得ません。自由・平等な社会が実現した結果がこれです。このままでは、3K、ガテン系、過酷な第1次産業(例えば漁師さん)という真に社会を支えている職業が衰退してしまいます。
 もし、日本で職業選択の自由をなくしてしまったらどうでしょう。仕事はすべて世襲。生れた時から、農家は農家、漁師は漁師、教師は教師としての教育をされます。そうすればいろいろな業界に優れた才能をある程度均等に配置できるようになり、総じて全業界が発展してゆくのではないでしょうか?
 職業選択の自由がないなんて、そんな生きがいのない社会なんて・・・という批判が聞こえてきそうですが、それは現代ニッポンの視点に縛られすぎたものの見方のような気がします。
 たとえば、輪廻転生が基盤思想となっている社会においては、そもそも現世において自分の希望を実現する、という発想自体ありません。自分の希望は、転生した後の次の人生、すなわち来世において実現します。そのために今の人生、職業を精一杯生きるのです。そこで悪行を行ったりサボったりすれば、来世で、今より下層に転落してしまいます。そうならない為、誰もが誠実に生きようとし、社会の道徳、秩序が保たれます。社会が必要としていても、誰もやりたがらない仕事に人材が不足することもありません。
 また、この思想には上位階級に生れた人々にとって精神衛生上好都合なことがあります。それは下層階級で日々たいへんな仕事をしている人々を見て、心を痛める必要がなくなることです。現世は魂の修行の場ですから、誰もがもともと最下層階級からステップアップして今に至っているわけで、自らも過去生において辛い経験をしてきているわけです。したがって上層の者が下層の者に同情する必要がありません。これは心優しい人々においては救いになります。
 もうひとつ、輪廻転生の思想には優れた点があります。「死」に対する恐怖心を払拭してくれる点です。
 ダライ・ラマは代々「また会おう」と言って死んで行くそうです。
 死は終わりではなく、新しい生への旅立ちです。しかも誠実に現世を生きた人々にとって、死こそ、より幸せな来世への希望に満ちた旅立ち以外のなにものでもありません。誰もが人生の最後に迎える「死」。その恐怖を希望に変える優れた思想、それが輪廻転生の思想です。
 私は、以前から「従業員に夢を与えなければ」と力む経営者を冷めた目で見てきました。皆がそうとはいいませんが、「夢」という耳ざわりの良い言葉を使って、経営者の都合の良い方向へ従業員を誘導しているような気がしたからです。欺瞞の匂いを感じずにはいられませんでした。
 私にしたところで、振り返ってみれば職業選択の自由は、実質的にはありませんでした。運命に従った結果、今、ここにいます。
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2010年05月24日

雨の日の瓦屋

 今日は朝から土砂降り。現場に出るのは無理と判断し、14名の職人さんを事務所に集め、雨降り日にやろうと思っていた仕事の割り当て決め。メニューは粘土作り、資材置き場の整理と清掃、廃瓦・廃材の産廃処理場への運搬・・・・。
 屋根工事店にとって悪天候の日をどう過ごすかは頭の痛い問題です。1人親方の工事店であれば、晴れた日は働き、雨の日は休む=晴耕雨読、といたってシンプルですが、当社のように会社組織でやっているとそうはいきません。屋根の下で働くこと(工場労働)を前提に作られた労働基準法の縛りの中で四苦八苦します。政治家・官僚のみなさんには、天候に左右される職場用に、労基法の改定をお願いしたいものです。
 そんなわけで今日はPM6時前にほとんどの社員が帰宅。胆沢町→八幡平→雫石→盛岡と回ってきたK部長と職長のTが今(PM7時)に帰ってきました。早く帰って一風呂浴びて温まってください。
 
 
 
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2009年09月04日

わっ誤報だ

 焦りました。9月1日に取引先その他から電話が。「沼田製瓦が瓦一体型太陽光モジュールを開発」という記事が某全国紙の岩手版に掲載された、とのこと。もちろん誤報です。
「住ま・エネフェア」という住宅祭に出展し、瓦一体型の実物施工モデルを展示しておりました。人目を引いたのは事実で、記者の方も随分盛況なブースがあるな、と思っていらっしゃたとのことでした。まさか当社がこれを開発したという前提で質問されているとはまったく思いませんでした。というか瓦一体型モジュールの施工はもう4年ほど前からやっており、自分たち的には特に目新しいモノでもなく、開発云々という部分に今更焦点があたるとは・・・。
 取材というのはコワいですね。相手がどんな前提で話しているか、あるいはどんな方向に記事を持って行こうとしているか、を探りながら質問に答えないといけないなあと痛感。
 昔はどちらかと言えば逆の立場だったので、本来勘が働いて良いはずですが、ダメですね。勘も鈍っているかも。
 日々ジミ〜に生きている私ですが、昨年からTVに2回、今回新聞とマスメディアに出没しております。
 今日は業界紙から電話があり、今回の誤報の一件記事にしませんか、とまたまた取材のお誘い。う〜んどうしよう・・・。
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