2011年11月23日

加守田さんの本棚

 11月13日は、私にとって忘れられない日付です。
 1995年の11月13日、私はそれまでの東京生活に終止符を打ち、故郷・遠野へ戻りました。
 毎年、この日が巡り来る度に、感慨に浸ってしまいます。ちなみに今年で16年目になりました。
 
 あの頃を思い出すと、やはり辛かったです。受け容れがたいことが種々ありましたが、受け入れないわけには生きていけないわけで、今思うと相当無理してました。空笑いばかりしていたような気もします。しかし、全ては自分で決めたことです。そしてこれは、絶対に我が人生において避けては通れない道、そう信じてました。

 そんな時、心のよりどころとなったのは、加守田さんの思い出でした。
 当時、加守田さんのアトリエは当社で管理しておりました。加守田さんを慕って訪ねてくる方々をよくアトリエにご案内したものです。
 アトリエは、加守田さんが遠野を離れた当時のままだったのですが、私が興味を引かれたのは本棚の蔵書でした。10代の頃はピンとこなかったのですが、30代半ばの年齢になってその背表紙を眺め、加守田さんの読書傾向を知り、それまでとは違う面から加守田さんをとても身近に感じました。
 まず、倉橋由美子さんの小説が数点ありました。
 私は、高校時代に倉橋由美子さんの「聖少女」を読んで以来、ずっとその小説世界に魅了されてきました。「暗い旅」や「夢の浮橋」といった初期の作品が特に好きです。
 おそらく倉橋由美子という、ちょっと毒を含んだ作家は、あまり日の当たるところで語るに相応しくない印象があり、人前で読者であることを公言するのがはばかれるような気もするのですが、その作家を、ああ、加守田さんも読んでいたのか、と思い、とてもうれしくなりました。
 
 実を言うと、2冊だけ、その本棚から持ち出した本があります。「ニューヨーカー短編集」と「深沢七郎短編集」です。
 2001年に奥様と三男の三郎さんが遠野にいらっしゃり、アトリエの中を整理して帰られ、その時、本棚の蔵書も持ち帰られました。
 本を2冊お借りしていることを話せないまま、数年が過ぎ、昨年、長男の太郎さんを新花巻の駅まで送って行く車中で告白し、やっと胸のツッカエが取れました。晴れて、太郎さんの了承を得て、上記2冊は、遺品として私がいただけることになったわけです。

 16年が過ぎ、多くの事が変わりました。その中には私の意志で「変えた」ことも含まれます。
 帰ってきた目的を、ひとつ、またひとつとクリアしながら、ではこの先、いったい自分は何処に行くのか、という疑問を感じる日々です。
 遠野で18年、東京で15年、そして再び遠野で16年。
 どうやら私は約15年単位で自分の人生を切り替えているみたいです。
 先に、「この人生は避けて通れぬ道と信じていた」と書きました。
 今になってみると、実際はそうでもなかったんじゃないか、と思えます。
 もうひとつの別の人生を歩める一歩手前のところにいながら、あえてその道を歩まなかった自分。
 仮に、自分が遠野に戻らなかったとしたら、今、会社はどうなっていたか?
 たぶん、こうなったろうな、という形は想像できます。
 その場合の形と、今ある会社を比べれば、今の方が間違いなく良い、と言える自負はあります。
 あと15年経てば、私も65歳です。あっと言う間にその歳になるだろうことは疑いありません。
 一日、また一日と時は過ぎて行きます。
 また、大きな決断をしなければならない瞬間が、近づいているような気がします。
 
posted by walker at 19:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 加守田さんの思い出

2010年06月02日

加守田さんの思い出

 遠嫁ブログで陶芸家の故加守田章二さんについて触れた箇所があり、補足が必要かな、と思っておりましたので書きます。またこれをきっかけに遠野時代の加守田さんについて、私が知っていることを記憶をたどりながら何回かに渡って書き残しておこう、と思います。
 加守田さんが私に話した言葉は、正確には「遠野は大陸的だよ」だったと思います。
 その時の「大陸」という言葉が何を意味するのか、中国なのかヨーロッパなのか、または何かを象徴して大陸という言葉で形容したのか、私には分かりません。
 ただ、当時の私にとって生まれ故郷の遠野は、田舎で盆地で暗くて、冬は長くて、とにかく早く脱出したい町でしたから、その町と「大陸」というはるかなロマンを感じさせる言葉とのギャップが強く印象に残ったのを憶えています。
 1980年。加守田さんはメインのアトリエを遠野から東京へ移しました。私も、高校を卒業し上京しました。受験した大学は全敗。予備校生としてのさえない旅立ちではありましたが。
 その年の秋に、加守田さんから下宿に連絡があり、東京にいるから久しぶりに会おう、と言われ、日本橋高島屋の加守田さんの個展会場で待ち合わせしました。
 よく晴れた日曜でした。加守田さんの後をついて、日本橋から赤坂、大泉学園のアトリエ、最後は西武池袋線の沿線にあった白土三平さんの自宅へ寄って(白土三平さんは確か釣りに出ていて会えませんでした)、とっぷりと暮れた中、駅前の喫茶店でウィンナ・コーヒーを飲んで帰途につきました。
 あの秋の1日の風景は何度も思い返してきたためかよく記憶に残っています。特に、加守田さんが言ってくれたある言葉は、今までも、こらからもずっと私を勇気付けてくれる掛替えのない言葉です。

 この日が私が加守田さんに会った最後の日になりました。
 年が明けて、受験も間近になった頃、加守田さんから手紙が届きました。「君の合格を心から祈る」
 封筒を見ると、東北大学医学部無菌病室と書いてありました。気になって、同じ下宿にいた医学部志望の友人に見せたら、「白血病なんじゃないのか」と言われました。
 その2年後に加守田さんは他界されました。
 これを書いている自分は、もうあの日の加守田さんの年齢を追い越してしまいました。
 アトリエで、私の進路について話が及んだ時の気まずさを今でも思い出します。若かった頃の自分の情けなさに恥じ入るばかりです。

 加守田さんが話してくれた幾つかの言葉の意味を考え続けながら、若い頃、無益に過ごした時間の償いをしながら生きていかなければ、と思います。
posted by walker at 11:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 加守田さんの思い出