2011年12月06日

10年後、現場で働く人間は残っているのか?

 先日の朝礼の持ち回りスピーチで、職人のEさん(60歳)が、こんな話をしました。
 「自分もこの会社にお世話になって7年だが、その間に若手がどんどん成長してきた。KもTも(当社の若手二人)も立派な職人になり、今では時折オーラさえ感じる。こうして皆をみていると、ほんとうにすごい集団だな、と思う・・・」
 実は、Eさんは7年前、他の瓦工事店から当社に来た方でした。面接してほしい、と電話があった時は、正直、悩みました。ただ、電話での声の感じに惹かれるものがあり、お会いし、採用を決めました。今は、採用して本当に良かった、と思ってます。
 ところで、Eさんの言った「すごい集団」という表現は、私もその通りだ、と日頃から思ってました。
 当社は、現在現場で働く14名の職方がおります(監督員は除いて)。資格で言えば、ほとんどが1級技能士で、かつ皆、経験も豊富です。業界新聞を読んでいると、まるで和瓦が葺ける職人が特別なように書いてありますが、当社では当たり前のことです。全員が、よその会社に行けば、エース級の実力者と言えるでしょう。さらにそのうち2名は板金技能士の資格も併せ持っています。
 現在、当社は技能レベルで言えば、ピークにある、と言えるでしょう。
 自慢話をする気はありません。この事実に、逆に私が危機感を持っているからです。
 全員が、経験豊富な資格者である、ということは裏を返せば、若手、新人がいない、育たなかった、ということでもあります。
 今、当社に、若手の新人が入社した、とします。多分、続かないでしょう。それだけ、当社の職方の仕事はハードなものになってます。
 いつの間にか一番若いTという職人も29歳。したがってもうすぐ20代の働き手はいなくなります。
 あと10年たったら、どうなっているのでしょう。それまでに、どれだけ、次世代の働き手を、当社は育成できるのでしょうか?
 
 外に目を向けてみましょう。現在、建築業界は空前の人手不足です。理由はふたつ。
 ひとつは、言うまでもないことですが、ここ10年の不況です。多くの建設会社が倒産、廃業し、その下請けの専門工事店も、同様に倒産、廃業、大幅業務縮小となり、従業員も減りました。現場での働き手がこの10年で3割減ったと言われてます。残った7割を見ても、高齢化と技能レベルの低下は著しいでしょう。全体としての施工力は、4から5割近く落ちていると言って良いのではないでしょうか?
 ふたつ目の理由は、これも言うまでもなく、震災後の、復旧、復興工事が大量に発注されているためです。
 大手ハウスメーカーでも、日頃から職方を大切にしてこなかったところは、受注があっても、家が建たない状況です。先日、それまでまったく取引のなかった某大手から工事をやってほしい、と電話が入りました。勿論、お断りしました。今までお世話になったお客様の工事でも手が回らないところに、そのような依頼を受けられる訳がありません。倫理的に許されることではありません。

 この10年、大工さんなど職方を従業員として抱える工務店、専門工事店がどんどん少なくなってきました。代わりに増えたのが、営業と設計と施工監督員だけで会社を作り、イメージ先行、工事は全て外注というタイプのビルダーです。人間で言えば、口先と要領の良さだけが取り柄で、包容力も体力もまったく無い、まあ、女性の皆さんの立場で言えば、絶対に結婚しない方が良い男のタイプみたいな会社です。
 ところが、なぜかそういうタイプの方が現代ではモテるみたいで、悲しいかな、質実剛健、工事品質の最後の砦である専門工事店までもその業態を真似して、自社職人を抱えなくなってきました。職人たちは、1人親方として独立し、外注先という立場になりました。
 生活の安定も将来の保証もなくなった業界に、後継者が現れるはずもありません。

 建築業界は、今回の空前の人手不足を経験し、将来に向け、目を覚ますことができるのでしょうか?
 残念ながら、私は無理だと思ってます。
 「セキスイハイム」が「工場で家を作る」ことをセールス・ポイントにするTVCMを打ちました。画期的なCMでした。
 それまでは、現場における職人の腕前こそが住宅建築のセールス・ポイントでした。そのような信頼できる職人が、ますます廃れて行かざるを得ないのが日本の未来です。建物の品質を現場の働き手の能力にゆだねることが出来ない時代が、もうすぐ来ます。
 また、専門工事店における知的経営者も少なくなってきます。優秀な人材は、キツイ、儲からない、ハイ・リスクなこのような業界には誰も入ってこないでしょう。専門工事店のほとんどは当社も含め従業員数名〜20名程度の小さな会社です。その経営のために要する能力は、先見性、マネジメント力、財務知識、理系的なセンス・知識、営業力・・・と極めて多岐に渡ります。私くらいの世代(1961年生まれ)であれば、優秀な人間でも事情があって進学できなかった者がたくさんおりました。その中からも多くの優秀な経営者が出てきたでしょう。今後もそれが期待できるか?残念ながら現状を見る限り、非常に疑わしいです。
 あくまで家は腕前の良い職人に作ってもらいたい、というこだわりがある人たちは、今、つまり私くらいの年代が現役でいられる時が、最後のチャンスかも知れません。

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2011年11月30日

創業者 沼田三次郎の話(後編)

 昭和33年、法人化し有限会社沼田製瓦工場となった当社ですが、三次郎はその前年、遠野市農協の組合長に就任しておりました。毎日、農協に通っておりましたので、会社(当社)を守る方はたいへんだったと思います。
 父は当時、21歳くらいでしたが、その若さで実質、沼田製瓦の経営を任されたようなものでした。
 私が推測するに、ジイサンは、本質的にあまり会社経営に興味がなかった、というか好きではなく、長男にさっさと面倒なことを振ってしまいたかったのではないか、という気がします。
 ちなみにこれはその頃の父のエピソードです。
 ある日、資金が足りなくなり、従業員の給料が払えなくなったそうです。思いついたのは、当時の北日本銀行遠野支店長の顔。実は、北日本銀行の遠野支店を開設する際、なぜかジイサンが一役買っており、支店長はよくうちに立ち寄っては、ジイサンと談笑し、父のこともかわいがってくれていたようです。二十歳そこそこの父からみれば、優しいオジサンという風に見えていたわけです。
 さっそく北銀へ行って、窓口で「沼田瓦ですが、お金を貸して欲しい」と言いました。行員さんに怪訝な顔をされ、待たされていると奥から支店長さんが現れました。父は、助かったとばかり、借り入れのお願いをしました。
 支店長さん、曰く「イサオさん(父の名)、あなたはそのお金の返済のための資金計画表をお持ちですか?」
 父「?」
 支店長さんは言いました。「返済計画もない方に銀行はお金を貸せませんよ」
 それまでは優しいオジサンと思っていた人物が見せた別の顔でした。まあ、当然の話ではあります。
 このことが、父にとっては天地がひっくり返るほどのショックだったようです。以来、父は、絶対、銀行なんかに頼るもんか、とかたく心に決めました。当社の無借金経営の方針がその瞬間に決定しました。勿論、それが経営的に良いかどうかは、別の話です。
 
 話は前後しますが、三次郎が遠野で開業した理由は、先に書いた、燃えるような意地、が一番だったと思います。また、故郷・盛岡で開業するのはお世話になった木村窯業所さんに申し訳ないという遠慮がありました。その一方、それと対照的なクールな判断が三次郎にはありました。
 盛岡で修行した三次郎は、冬期の会社経営の辛さを身に沁みて感じてました。岩手の内陸部は、冬は雪に覆われ、屋根工事ができません。したがって通年で従業員を雇うのが困難です。遠野であれば沿岸部も近く、冬はそちらで仕事が出来るのでは、と考えました。岩手でも太平洋に面した沿岸部は、冬でも雪が少なく温暖な気候なのです。
 この考えが、当たりました。その後、本格的な自動車の時代が到来しました。そうなると遠野からは、沿岸部はもちろん、久慈、二戸以外の都市には1時間から1時間半で通えます。しかも、新日鉄釜石の発展で、お隣の釜石市は10万都市になろうという勢いでした。
 時代は、高度経済成長期へと突入します。地の利を得て、当社も年々業績を伸ばしていきました。
 昭和40年代の初期、私が小学校の低学年の頃でしょうか、ついにお隣の瓦屋(窯元)が廃業しました。こうして、当社は遠野でただ一軒の瓦屋となります。
 よく人から、競争相手がなくて良いですね、商売楽でしょう、独占企業ですね、と言われるのですが、初めから競争相手がいなかったわけではないのです。それどころか、ただ一社になるまでには先代の時代の熾烈な戦いがあったことを、どうぞご理解ください。そして、地元でただ一社であることは、同時に他の地域のライバル会社からの攻撃に日々さらされていることでもあります。当社が必死で施工法の開発、職方の施工技術の向上に励んでいるのは、そういった緊張感からであります。

 三次郎の農協での仕事をささえたのは海老子川五郎さんという方です。戦後、復員して農協に入った海老子川さんと三次郎はすぐに意気投合しました。私が子供の頃、海老子川さんがよく家にやって来て、ジイサンのことをアニキ、アニキと呼んでいたのが強く印象に残っています。子供からすると、ジイサン同士で片方がアニキと呼ぶ姿は奇妙でもあり、またやけにカッコよくもありました。二人でいる時はホント若々しかったです。
 三次郎の葬儀を本当に意味で仕切ったのは海老子川さんだったと思います。しかも一切表に出ずに。その数年後、海老子川さんも旅立たれました。この二人の信頼関係・友情には崇高なものさえ感じます。

 友情と言えば、盛岡のレンガ職人の川村さんがおりました。年末のあいさつに行くと、ほぼ半日がかりで、ジイサンの思い出話を聞かされます。うちの菩提寺は盛岡の寺町にある光台寺なのですが、年始、お盆、彼岸、命日のお参りに良くと、必ず川村さんの名刺が墓の前に置いてあります。どんなに早く言っても、必ず先を越されます。現在100%負けてます。いったい何時にやってくるのでしょう?
 川村さんによると、三次郎はたいへんな酒豪で、本町通りに行き着けの店があったそうです。もちろん家族の者は誰も知りません。と、言うか家の中ではジイサンはまったく酒は飲めない人ということになってます。どちらが本当なのか今となっては分かりません。

 また、木村窯業所時代にこんなエピソードがありました。
 ある日、社長さんから、お前だけだ、と今で言うボーナスを貰ったそうです。仕事も出来るし、家もたいへんなのだから役に立てろ、という意味だったのでしょう。
 三次郎は、従業員全員を引き連れ料亭に行き、「今日はこれだけ金がある。遠慮しないで飲むべし!」と言って、皆に振る舞い、一晩でそのお金を使い果たしてしまいました。
 そのことが木村社長の耳に入り、三次郎は呼ばれて、私の気持ちがわからんのか!と社長にこっぴどく叱られました。その時、三次郎「こっそり自分だけお金をもらうなんて、出来なかった」と言ったそうです。

 晩年は、朝早くから細工場へ行き、夕方まで鬼瓦や細工物を作ってました。細工場には根澤さんという弟子の方がおり、たいへんお話が面白い方で、私は、学校から帰ると、細工場で粘土で遊び、根澤さんの話を聞いて過ごしてました。
 三次郎の作った焼き物は膨大な数です。鬼瓦はもちろん、美しい観世音菩薩から河童や狸の置物、漬物屋さんから頼まれて作った大根の棟瓦など・・・。オチンチンをぶらさげて斜めに寝ている狸の置物など、いったい何を思って作ったのやら、昨年、Naoちゃんと片付けしていてため息が出ました。
 時々、思いがけぬところでジイサンの焼き物と出会います。それらはひとつとして売ったものはないそうです。全部、あげたいと思った人に差し上げたそうです。河童ブチに置いてある河童の置物は、今は亡き河童ジイサンが町へ行く中、中間地点の当社でお茶飲み休憩をしていたのが縁で作ってあげたのが始まりのようで、河童ジイサンと同様一時けっこうメジャーになってしまいました。
 倉庫には今でも膨大な量のジイサンの残した石膏型があります。

 三次郎は90歳まで元気に細工場で働き、足腰が弱って91歳で寝込み、1994年2月、94歳で他界しました。寝床で3年間ずっと「ヒロシ(私)を呼び戻せ」と言い続けていたそうです。そして、まるでアテツケのようにあこがれの太田裕美さんとの仕事を台無しにする絶好のタイミングであの世へと旅立ちました。そこら辺の詳細は過去ブログ「強く念じた思いは実現するか?」をご参照願います。
 母が言ってましたが、三次郎氏を一言でいうと「何をやってもどこか滑稽な人だった」そうです。同感です。
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2011年11月29日

創業者 沼田三次郎の話(中編)

 前編の続きです。
 勤めていた窯元を解雇され無一文になった三次郎。「新張の人たち」の支援を得て、自分を解雇した窯元の隣に、自分の窯を作り、戦いを挑みました。
 最初の試練は、電線を引いてもらえなかったことでした。当然、隣の窯元まで電線は来ています。それがなぜか、電力会社がそれを拒んだ。三次郎、電力会社の遠野所に乗り込み直談判しました。それが相当壮絶な談判だったようです。まあ、本人の口から家族もその時の大立ち回り?の話は聴いておりましたが、裏付けは、私の同級生です。私が中学の時、転校生だった高橋アキラというヤツと同じクラスになり、彼は、当時の東北電力遠野所長の息子でした。彼が私に「お前、沼田三次郎さんの孫か?」と言うのです。「そうだが、なぜお前がジイサンのことを知っている」と聞き返すと「オヤジから聞いた」と言いました。「なぜ、オヤジさんがウチのジイサンを知っているのだ」と聞き返すと、「お前のジイサンが凄い人だからだ」と言います。どうやら当時のジイサンの立ち回りが電力会社で語り継がれていたみたいです。
 以後、高橋アキラは、私の顔を見る度に、「お前のジイサンは凄い」と言い、ある日、何かで落ち込んでいる私のところに来て「大丈夫だ、お前は沼田三次郎の孫だ。何かあればじいちゃんがお前を守る」と言って私を励ましました。ところで高橋アキラよ、万一このブログを見ていたら連絡せよ!そして私にウソをついて花巻北高を受験したことを詫びよ!私はお前も遠野高校を受けると言ったから遠高へ行ったのだ。
 思わず脱線してしまいました。話を戻します。
 隣との戦いはどのようなものであったか?例えばこんなことがありました。
 窯元の場合、忙しいかどうかは、窯を燃やす煙で判ります。受注がなければ焼く瓦がありませんから、窯に火が入りません。したがって両社は競って窯に火を入れました。隣で火が入ると、片方は焼くものがなくても火を入れる、そんな意地の張り合いだったようです。
 時代は大戦に突入しました。当社も軍事指定工場になりました。
 戦火が去った頃、三次郎は、資産(お金・土地)と名誉(松崎農協理事)を手にしてました。無一文で創業してから僅か9年です。農協の理事は、その手腕を買われての就任でしたが、財産についてはどうしたのでしょう?木村窯業所の現社長さんと飲んだ時に聞いたのですが、どうやら、戦時中、盛岡に事務所を置き、県内の窯元の製品を取りまとめて出荷する仕事をやっていたようです。詳しくは判りません。ここが謎と言われている部分です。父もよく分からないようです。ただ、数年前、年金問題があった時、当社にある年配の方から電話がありました。昔、盛岡の瓦組合(定かな名称は不明)で事務をしており、その時、年金をかけてもらっていたはずとのこと。で、三次郎氏がそこの代表だったようで、それで当社に電話をしてきたようでした。私はもちろん、父も今となっては何とも返答のしようがなかったようです。
 さて、戦後となり間もなく、また騒動が持ち上がります。今度は農協の方です。
 当時、松崎地区はヘンピな土地でした。米を出荷しようにも効率が悪い。三次郎は軽便鉄道の駅の側に、松崎農協の集荷場所が絶対に必要と思っておりました。目を付けていた土地に買い手が付きそうになり、三次郎は農協の理事会を通さずにその土地を買いました。しかも自分のお金で。懲りない人です。
 理事会で事後承諾を取ろうと思いましたが、案の定反対に合い否決されました。
 そしてここからが男・沼田三次郎です。
 まず、自分のお金で買ったにもかかわらず、松崎農協の名でその土地を仮登記しました。
 そして、数年後、そこに国鉄が開通し、なんと三次郎の購入した土地の目の前に駅が建ったのです。今のJR遠野駅です。
 農協は色めき立ちました。普通なら、それみたことか、と高値をちらつかせて農協に買取を持ちかけるところですが、三次郎は、そうはしませんでした。自分が当時買い取ったままの価格、確か6,000円だったと父が記憶してましたが、要するに1銭も儲けずにその土地を手放したのです。さらに、ではその土地をどうするか、倉庫を建てよう、ということになり、三次郎はレンガ作りを提案しましたが、自分の会社を儲けさせる意図だろう思われるのが嫌で、なんとそのレンガを全て花巻の工場から買いました。一切の私利私欲を捨てた行動でした。ちなみにその花巻の工場の社長さんとは、それがきっかけでマブダチになったそうです。
 私利私欲を捨てた、と言えば、三次郎は、農協からは報酬を得ていませんでした。非常勤ということで年金さえかけてもらってませんでした。それでも毎日のように農協に通ったそうです。当時は当社の経営内容も良くはありませんでした。ほうとうに我がジイサンながら何を考えているんだかわかりません。
 昭和32年、合併して遠野市が誕生し、三次郎は晴れて遠野市農協初代組合長に就任します。しかも無報酬で。
 たいへんだったのは家族です。その中でもっとも犠牲になったのが我が父親です。
 父は、瓦屋を継ぎたくありませんでした。大学にも行きたかったそうです。三次郎はそれを許さず、高校を出るとすぐに父に会社をやらせました。父がそれでも会社を継いだただひとつの理由、それは、「隣の瓦屋に負けたくない」という意地でした。
 昭和33年、当社は法人化しました。有限会社沼田製瓦工場の設立です。
 経営は、まだまだきびしかったようです。
 さて、二足わらじを履いた三次郎、隣の瓦屋との戦いはこの先どうなっていくのか。後編を乞う!ご期待!

 後編予告
 後編は、番外のエピソード、関係者の証言を元に、さらに沼田三次郎の実像に迫ります。
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2011年11月28日

創業者 沼田三次郎の話(前編)

 当社は昭和11年の創業です。
 創業者は沼田三次郎。私の祖父です。孫の私が言うのもなんですが、その人生は激動で、心躍るものでした。爽快なエピソードに満ち、またその一部は、謎、とされています。

 沼田三次郎は、明治33年、盛岡の八日町(現・本町通り)に生れました。
 家は貧しく、幼くして丁稚奉公に出されました。仕事は、裁縫やボタン付けのようなことで、その女の子のような仕事が嫌で嫌で仕方なく、ある日、三次郎は奉公先を飛び出しました。かといって家に帰れば叱られて、元の奉公先に連れ戻されるだけですから、どこにも行く当てがありません。仕方なく、家の近所(現・北山)にあった空き地で、土を丸めて人形など形作り遊んでました。
 夕刻、そこに、ある方が現れ声を掛けたそうです。
 「坊主、何をしている?どこの子だ?」(たぶん、こんな風に言ったと思います)
 三次郎は、正直に、奉公先から逃げて来た、とその方に話しました。
 すると、その方は「そうか。ところで坊主は粘土で人形など作るのが好きなのか」と問いました。
 三次郎が、好きだ、と応えると、その方は思いがけぬことを言いました。「ならば、明日から、私のところで粘土でモノを作る仕事をすればいい。だから今日は家に帰りなさい。私が送っていってやるから」
 三次郎は、その日はその方に連れられて家に帰りました。家に着くとその方は、明日の朝、迎えにくるから、と言って去っていったそうです。
 しかし、三次郎は信じていませんでした。どうせ、自分を家に連れて帰るためにウソを言ったのだろう、と思ったそうです。
 ところが、翌朝、その方はちゃんと迎えに現れました。そして、三次郎を新しい職場に連れて行きました。
 その職場は「木村窯業所」という陶器瓦の製造工場でした。その方、木村氏はその社長でした。三次郎が遊んでいたのは、木村窯業所の粘土の採掘場でした。沼田三次郎12歳(確か)の時の話です。
 木村窯業所は、現在では瓦工事の他に、現社長の長男さんが始めた盛岡発の地ビール「ベアレン醸造所」で有名です。次男さんが主に瓦工事の方の後を継がれてます。余計な話かも知れませんが、長男さんは東北大、次男さんは北海道大学、三男さんは帯広畜産大学卒の獣医さん、と優秀な家系です。
 話戻って、三次郎は木村窯業所で、鬼瓦の製作に励みました。6年修行した後、木村社長から言われました。
 「三次郎、お前は鬼瓦職人として充分腕を磨いたのだから、後は、自分のその腕で生きていきなさい」
 そして三次郎は盛岡を離れ、さらなる修行の旅に出ました。18歳だったそうです。
 当時、岩手県内では30数箇所の瓦の窯元があったそうです。
 その数の多さに意外に思われる方も多いと思うのですが、当時の瓦の製造は、今のような工業化されたものではなく、全て手作業。焼成もだるま窯という小さな窯で少量ずつ焼いてました。当時、瓦は、ホントの地場産品で、県内の需要を満たす為には30箇所以上の製造所が必要だったわけです。
 沼田三次郎は、その県内の窯元を渡り歩いて、さらに鬼師としての腕を磨きました。
 そして、数年後、遠野にあった窯元から声が掛かります。経営がおもわしくなく、力を貸してほしい、ということでした。
 遠野は、海と陸を結ぶ交通の要衝の地。当時は宿場町として、県内では盛岡についで栄えていた町でした。
 三次郎はその遠野の窯元の再建に全力で臨みました。ここでいかにも三次郎らしいエピソードがあります。
 どうしても必要な設備投資があって社長に進言しましたが、認めてもらえませんでした。そこでどうしたか?
 何と、三次郎は、自腹でその設備を購入しました。その為の資金として、盛岡の現・菜園に持っていた自分の土地を売ってしまいました。盛岡の菜園です。当時はたぶん未開の地だったかも知れませんが、今は盛岡でも一等地です。売らずに持っていれば、我が家は今頃、左ウチワだったと思います(悔しい)。
 そして、その窯元は再建しました。その直後、思いがけぬことになります。三次郎は突然、その窯元を追い出されてしまいました。窯元の社長が、このままでは会社を乗っ取られると思ったのでしょう。ある日、三次郎を呼び、「三次郎さん、いやいや今までありがとう。お陰で助かった。でっもういいから」と言われたそうです。とんでもない話です。
 自腹で設備投資してしまったものだから、本当に一文無しだったそうです。三次郎はいっそ満州に渡ってやろうと思ったそうです。それを引き止めたのがその妻(私の祖母)でした。お腹に赤ちゃん(私の父)がいたためでした。
 その時、困り果てた三次郎に、救いの手が差し伸べられました。彼の働きぶりを買っていた近所の何人かの方たち(我が家ではその人たちを、地名を取って「新張の人たち」と呼び、今だ恩義を忘れてません)が融資してくれたのです。その資金で、三次郎は自分で窯元を立ち上げます。どこに立ち上げたか?なんと自分を追い出した窯元の隣です!もの凄い意地です。これも実に三次郎らしい行動です。それが昭和11年。太平洋戦争が5年後に迫ってました。ここまでで沼田三次郎の話・前編を終了します。中編後日。お楽しみに。

 中編予告 
 この後、三次郎の生涯でもっとも謎とされている時代に突入します。無一文から、なぜ、戦後、地主、遠野農協初代組合長にまで登りつめたのか?組合長時代のこれまた爽快なエピソード。身内を誉めるハシタナサを充分承知で書きます。だって、事実は事実。かつて遠野にこういう人物がいた、ということをどうしても分かってもらいたい。それがたまたま私の祖父だっただけです。
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2011年11月26日

生霊は存在するか?

 FMラジオからアバンティが流れています。市内の現場から戻ってきた職方たちが、日報を書いて、来週の打ち合わせを終え、ボチボチ帰り始めます。ここで間があって、1時間後くらいに遠隔地組(盛岡など)が帰ってきます。その待ち時間にブログを書くことが多いです。特に、冬場の土曜日はアバンティを聴けるのでけっこうお気に入りの時間帯です。
 
 さて、そんな穏やかな書き出しとは裏腹に、今日のテーマは「生霊」です。

 私は、まったく霊感は持ち合わせておりません。にも関わらず、霊というものに対する自分なりの考えを明確に持っております。
 端的に言って、霊とは恐ろしいものか、と問われれば、そんなことはない、と思ってます。但し、亡くなった方の霊に限ってですが。
 霊は当然の事ながら肉体を持っておりませんので、生きている(肉体を持っている)人間に対し、物理的危害を加えることは出来ない、と思ってます。
 この世には、何らかの事情で成仏できなかった霊が至る所で彷徨っているのだろうと、思います。しかし、彼らは日々彷徨うだけで、特に何ができるわけではない、と思います。霊感の強い人にはたまに彼らが見えるのでしょうが、それもただ見えるだけで、だからどうということもないでしょう。先日観た三谷作品「素敵な金縛り」でも霊は東京までタクシーで移動しました。まさにその通りで、霊は移動する場合、自分の足とか、車とか電車でしか移動できません。瞬時に、あちこちに出没する能力は彼らにはありません。霊とは、「一部の人々に、ただ見えるだけの存在」以上のものではない、と私は考えてます。従って、生きている人間の方が、霊よりも肉体がある分、はるかに強いでしょう。
 しかし、それが生霊ともなれば、話は違います。
 生霊とは、生きている人間の念です。これは怖いです。

 バブルの頃、銀座の某高級クラブにお勤めの女性から聞いた話です。
 同僚の女性が、お客様だったあるダンディな歯科医と結婚したのだそうです。
 この話は、その同僚の女性が、後に彼女に教えてくれた話です。

 彼(歯科医)は、猫を飼っており、たいそう可愛がっておりました
 その猫が、結婚後 しばらくして、元気がなくなってきました。ペット病院に連れていっても原因は判りませんでした。
 猫は次第に弱って行き、ある日、彼のそばにヨロヨロとやってくると、じっと彼の目を見つめました。まるで彼に対し、必死に何かを訴えているようだったそうです。少なくとも彼は、そう感じました。そしてそのまま、猫は彼の膝の上で息絶えたそうです。
 彼は、霊とかまるで信じないタイプだったそうですが、可愛がっていた猫のとても尋常とは思えない死に方に、ただならぬものを感じたのでしょう。ツテを頼って、高名な霊能者に家に来てもらったそうです。
 その霊能者は断定したそうです。「女の生霊が来てます」と。
 どこかの女性に恨まれている憶えはないか、という問いに、彼は「もしや、今回の結婚が原因では」と思い、結婚を機に、関係を清算した複数の女性がいたことを、その霊能者と彼の妻(つまり同僚の女性)の前で告白したそうです。複数、というところが、さすが、です。
 ならば、その名前を紙に書きなさい、と霊能者から言われるまま、彼は、数人の女性の名を書きました。「ちなみにその中に私の名前も入っていたそうなんだけどネ」と彼女は言いました。
 霊能者はそれを見て、「この女性だ」と1人の名前を指差したそうです。
 勿論、私にこの話をしてくれた女性の名ではなかったそうです。もし、そうだとしたら、この話、もっとホラーになります。
 つまり、生きている人間の恨みは猫の命を奪うほど強かったということでしょうか?
 生霊(念)というのは、当人ではなく、その家族(一緒に住んでいる人たち)の中で、もっとも弱い(生命力が弱い)者に取り付くそうです。この場合は、猫だったんですね。猫にとっては気の毒な話です。

 実は・・・告白しますが、かつて私自身がこの猫と同じ目にあったことがあります。この実体験こそが、私が生霊の存在を信じる理由でもあります。

 小学校の3年生の冬でした。急に体調が悪くなり、寝込みました。熱が下がっても、だるさは抜けず、病院に行っても、特に悪いところはない、と言われました。我慢できず、時々寝込むのですが、仮病と思われるのも嫌だったので無理に学校に行きます。食欲も落ちました。その後は、人間の体調なんてこんなものだ、これが大人になるということなんだ、と健気にも自分を納得させ、無理して普通に生活しました。でも、時々、快調だった頃を思い出して懐かしみ、同時にこれからの人生を生きる気力が薄れてくる自分を感じ、暗い日々を過ごしてました。
 そして4年生になりました。ある天気の良い日、2時間目か3時間目が終了し、休憩時間に水を飲もうと思って教室を出た、まさにその瞬間でした。ふっと、それまでのだるさ、体調の悪さが、一瞬で消えてしまったのです。あれっと思いました。あらためて、自分の体の状態を見つめ直してみました。確かに、以前の、普通に生活していた頃の体調に戻ってました。心がすっと晴れ、本当にうれしかったです。
 学校から帰ると、すぐに母親に報告しました。母は、普通の顔で「何時頃、そうなったの」と聞きました。私が、それに答えると、ああ、そう、良かったね、とあまり気のなさそうに答えました。
 真実を母から聞かされたのは、二十歳を過ぎてからです。それは次のような話でした。
 当時、我が家を恨んでいる方がいたそうです。その方の念が飛んできて、家族の中でいちばん生命力が弱かった私に取り付いていた、とのことでした。ある霊能者の方からそのことを指摘され、お払いに来てもらい、ちょうど、私の体調が一瞬で回復したまさにその時が、お払いをやっていた時間帯でした。

 この不思議な体験の後、私は生霊を信じざるを得なくなりました。ほんとうに怖いのは、生きている人間の念(恨み)です。仕事で、取引先をいじめたり、お客様に不義理をやっても、自分の会社さえ儲かればいいんだ、と思っている社長さんがいるとします。その時は良くても、後が怖いです。たくさんの念がやってくることは間違いないでしょう。まず、私が最初に念を飛ばします。ご用心ください(コワい)。
 ちなみに、我が家を恨んでいた方ですが、仕事がらみのことではなく、かつ、誤解から生じたことだったようです。今は、私もその方が大好きでとても良い関係になってますので、ご心配なく。
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2011年11月25日

劇団員だった頃?

 のっけから?印でまたまたすみません。最近、お詫びしてから書き始めるパターンが多いです。
 私が劇団員だった?ってあまりに唐突というか、多分、親しい友人たちでさえ初耳の、私の知られざる過去です。
 それにしても、過去を振り返る文章が続いてます。どういう心境なのでしょうか?あまり自覚もなく、思うまま、意の向くままに書いてます。

 まあ、劇団員というか、ある演劇研究所の講座に半年ばかり通っていただけのことです。20代前半の頃です。別に、役者になりたいと思ったわけでがありません。演劇自体にもまったく興味はありませんでした。
 では、なぜ急に演劇を勉強してみる気になったか、と言うと、ある日突然、自分の肉体と精神を自分の思うとおりに操ってみたい、と切実に思い、もし、そういうことが可能であれば、人生のあらゆる局面を楽々と乗り切っていけるのではないか、つまり、人生という舞台で名優になってみたい、と思ってしまったからです。前提には、肉体も精神も自分のものでありながら、思うようにコントロール出来ないことに対する苛立ち、疑問がありました。極めて実利的、功利的な動機、かつ安易な発想です。
 その研究所のレッスンは私の求めていたものと近く、たいへん興味深いものでした。現在行っているヨガとも通じる部分があります。但し、ヨガはどこまでも内向的なのに対し、演劇のレッスンは自分の肉体を通し、内界(自分)と外界(他人)の両方を強く意識するところが大きく異なります。
 夜間、週2回(くらいだったかな?)のレッスンでは、深く極めるところまでは到底行き着けなかったし、今では学んだこともほとんど忘れてしまいました。首が左右に動くようになったので、正調「冗談じゃねえよ」もしくは「サンサンサンジュウダイはグロンサン」(分かるかな?)が芸としてできるようになったことと、多少、パントマイム的な動きができるのが、当時に名残りでしょうか?
 ただ、参ったのは、研究所の指導者の1人になぜか絡まれて「お前は役者なんか向かないからやめろ」と会う度に言われたことです。こちらは役者になる気など鼻からありません。「別に役者になりたくて来てる訳ではないので・・・」と幾ら言っても分かってもらえませんでした。舞台の千秋楽(一応卒業公演なるものをやった)後の打ち上げの飲み会を新宿の稽古場でやったのですが、その時もくどくどと言われ、何だろ、この人、と思ったものです。
 稽古場で徹夜で飲み、早朝、片付けを終えて、三々五々、散っていきました。男手が少なく、私は最後まで片付けを手伝って稽古場を後にしました。
 寒い季節でした。いつものように甲州街道を新宿駅まで歩きました。ちらちらと雪が舞い降りてました。その日はたぶん月曜だったと思います。ちょうど出勤の時刻で、駅からはスーツにコート姿の人の群れが流れてきます。圧倒的多数の群れの中、ただ1人逆方向に歩きながら、ふと、この風景って今の自分の人生を象徴しているのではないか、と感じ、急に不安と孤独感に襲われました。忘れられない朝です。

 そんな中、ひとつだけ暖かい思い出があります。
 ある夜の稽古からの帰り道、同じ研究生の男性に声をかけられました。おそらく30代半ばくらいでしょうか、とても穏やかで、知的な雰囲気のある方でした。
 「君は、小説を書いているの」と突然、切り出されました。
 勿論、小説など書いている訳がありません。面食らって「別に書いてませんけど・・・何故そう思ったのですか」という風に答えると、彼は、
 「この間の課題の時、ちゃんと要求に応えられていたのは君だけだった・・・・」と言いました。
 その課題というのは、二人の人間のある断片的な会話を渡され、男女1組になり、その会話を演じる。演じた後、その会話がなされた状況を説明しなさい、というものでした。
 私は、その会話文を読んで、あるストーリーを組み立て、相手の女性と良く打ち合わせして演技を構成しました。
 その後、順番に演技を発表して行ったのですが、確かに、会話のバックグラウンドにあるストーリーの構築までは皆、手が回らなかったようで、ほとんどが曖昧な説明で終わりました。実際に準備に与えられた時間は極めて少ないものでした。
 私は、とにかく頭をフル回転させ、あるストーリーを完成させました。客観的に判断して、ストーリー自体に面白みがあり、会話との関連も自然で、かつ破綻もないものだったと思います。我ながらよくあんな短時間で一遍の会話を発端に短編小説(のストーリー)を作れたものだと思います。
 彼は、その時のことをちゃんと憶えていてくれたのでした。
 「ふ〜ん、そうかぁ」と彼は、私の返事に、それでも納得がいかない様子でした。そして言いました。
 「でも、君からは、何かを創作する人間の匂いがするよ」と。
 
 ささいなことでも、それでも自分を認めてくれている人がいる、というのは心を暖かくしてくれます。人生の灯です。
 私にとってこの時代は、以前書いた「喫茶とと」と同時代になります。暗く、悩ましい時期でしたが、なぜかエピソードには事欠かない時代でもあります。そう言えば、1人、忘れられないヤツがいました。当時の私の相棒で、まさに漫画みたいなドタバタ・コンビでした。次回は、ヤツの話でも書きましょうか?
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2011年11月24日

宿敵に感謝する日

 変な題名のテーマですみません。
 で、何を言いたいのか、と言えば、過去、その存在に苦しめられた相手に対し、時を経て感謝できる時が来ますよ、というまるでどこかのエラソーな指南書に書いてあるような話です。
 でも、実際そうです。
 現実社会においても、次から次と敵は現れます。まるで、30年近く前の少年ジャンプの定番ストーリーを地で行くのが現実です。
 そんな新たな敵に出会った時、もっとも自分を勇気付けてくれるのは過去の敵の存在です。
 郷里に帰った時、最初に出会った敵は、何を隠そう我社の従業員でした。
 当時は、20代の職人がいちばん多く、かつ皆、茶髪をなびかせた一癖も二癖もある連中でした。
 そんな若い連中が好き放題の言動、行動を行い、年配者たちがそれにひどく気を使って一歩引いている、という状況でした。当社の駐車場はそんな若者たちの派手な車がズラリと並んでました。
 どうやらバブルの頃、なかなか若い働き手が集まらず、若者を大切にしなければ、という気風が社内にあったようです。
 そこに30代半ばの一応、組織人として常識を学んできた人間が突然入ったわけです。郷に入れば郷に従え、とは言いますが、さすがに限界があります。世の中には最低限の規律というものがあります。そこからさえ逸脱する行為に対して、私は目をつぶることは出来ませんでした。そして、若者たちとの対立が始まりました。私もコワモテだったら良かったのですが、残念ながらその対極の線が細いタイプだったため、最初は当然のように舐められまくりました。
 思えば長い戦いの日々でした。そんな時、折れそうになる心をもっとも支えてくれたのは、過去の記憶でした。意外にもそれは誠意を持って指導してくれた人の記憶ではなく、徹底的に対立した人々、時には心底憎しみを感じていた人々との戦いの記憶でした。とにかくいびりまくられた制作サイドのボスとか、訳分からんクライアントの担当者とか・・・。そんな過去の敵たちとの日々、自分はあの戦いを戦い抜いた、という思いが、私の闘志を呼び起こし、田舎のワカゾーなんぞに負ける訳がない、という気になってくるのが不思議でした。そしてもっと不思議だったのが、その時思い出す大嫌いだったあの顔、この顔がとても懐かしく、ああ、あの人たちが自分を実戦でここまで鍛えてくれたんだな、こんなに恨まれてまで、と思うと、彼らに対し、心から感謝の気持ちが湧いてきたことです。ウソじゃありません。あの気持ちはまぎれもなく感謝です。変な人生指南書みたいなこと書いてますが、ホントです。

 一歩も引かない戦いの中で、何人かの若者が会社を去りました。終戦は2000年の春頃でしょうか。今、残っている当時若者だった職人は、それでも私に付いて来てくれた連中です。1人(ギリギリ29歳)を除き、皆30歳を過ぎました。
 そして、去っていった者たちに対しても、いつか感謝の思いをこめて懐かしく思い出す日が来るでしょう。でも、その時は新たなる強敵が目の前に居るのかな?(タメ息)
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2011年11月23日

加守田さんの本棚

 11月13日は、私にとって忘れられない日付です。
 1995年の11月13日、私はそれまでの東京生活に終止符を打ち、故郷・遠野へ戻りました。
 毎年、この日が巡り来る度に、感慨に浸ってしまいます。ちなみに今年で16年目になりました。
 
 あの頃を思い出すと、やはり辛かったです。受け容れがたいことが種々ありましたが、受け入れないわけには生きていけないわけで、今思うと相当無理してました。空笑いばかりしていたような気もします。しかし、全ては自分で決めたことです。そしてこれは、絶対に我が人生において避けては通れない道、そう信じてました。

 そんな時、心のよりどころとなったのは、加守田さんの思い出でした。
 当時、加守田さんのアトリエは当社で管理しておりました。加守田さんを慕って訪ねてくる方々をよくアトリエにご案内したものです。
 アトリエは、加守田さんが遠野を離れた当時のままだったのですが、私が興味を引かれたのは本棚の蔵書でした。10代の頃はピンとこなかったのですが、30代半ばの年齢になってその背表紙を眺め、加守田さんの読書傾向を知り、それまでとは違う面から加守田さんをとても身近に感じました。
 まず、倉橋由美子さんの小説が数点ありました。
 私は、高校時代に倉橋由美子さんの「聖少女」を読んで以来、ずっとその小説世界に魅了されてきました。「暗い旅」や「夢の浮橋」といった初期の作品が特に好きです。
 おそらく倉橋由美子という、ちょっと毒を含んだ作家は、あまり日の当たるところで語るに相応しくない印象があり、人前で読者であることを公言するのがはばかれるような気もするのですが、その作家を、ああ、加守田さんも読んでいたのか、と思い、とてもうれしくなりました。
 
 実を言うと、2冊だけ、その本棚から持ち出した本があります。「ニューヨーカー短編集」と「深沢七郎短編集」です。
 2001年に奥様と三男の三郎さんが遠野にいらっしゃり、アトリエの中を整理して帰られ、その時、本棚の蔵書も持ち帰られました。
 本を2冊お借りしていることを話せないまま、数年が過ぎ、昨年、長男の太郎さんを新花巻の駅まで送って行く車中で告白し、やっと胸のツッカエが取れました。晴れて、太郎さんの了承を得て、上記2冊は、遺品として私がいただけることになったわけです。

 16年が過ぎ、多くの事が変わりました。その中には私の意志で「変えた」ことも含まれます。
 帰ってきた目的を、ひとつ、またひとつとクリアしながら、ではこの先、いったい自分は何処に行くのか、という疑問を感じる日々です。
 遠野で18年、東京で15年、そして再び遠野で16年。
 どうやら私は約15年単位で自分の人生を切り替えているみたいです。
 先に、「この人生は避けて通れぬ道と信じていた」と書きました。
 今になってみると、実際はそうでもなかったんじゃないか、と思えます。
 もうひとつの別の人生を歩める一歩手前のところにいながら、あえてその道を歩まなかった自分。
 仮に、自分が遠野に戻らなかったとしたら、今、会社はどうなっていたか?
 たぶん、こうなったろうな、という形は想像できます。
 その場合の形と、今ある会社を比べれば、今の方が間違いなく良い、と言える自負はあります。
 あと15年経てば、私も65歳です。あっと言う間にその歳になるだろうことは疑いありません。
 一日、また一日と時は過ぎて行きます。
 また、大きな決断をしなければならない瞬間が、近づいているような気がします。
 
posted by walker at 19:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 加守田さんの思い出

2011年09月29日

夢か現実か?

 今日はぼーっとしてほとんど仕事になりませんでした。提出期限の迫る見積りがたまっており、ホントはブログを書いている場合ではないのですが・・・。
 原因は寝不足とお酒です。
 こう書くと、私を知る人はえっと驚くと思います。
 私は周りの皆さんから、お酒もタバコもギャンブルも一切やらない、品行方正、穢れを知らぬ堅物と思われております。
 そんな私でも、稀にお酒で午前様があります。
 ご一緒したのは愛知県の瓦メーカー(いわゆる三州瓦)の若き社長K氏です。
 K氏も震災後、たいへんな日々を送っておりました。
 電話やメールで、早くこの非常時を脱して、一杯やりたいね、とお互い願望を話していたのですが、実際は当分無理だろうと思ってました。
 その彼が、昨日、突然、遠野に出没したのは、もちろん事情がありますが、長くなるので割愛。
 何れにせよ、夢の一杯が思いがけず実現し、ちょっと感動でした。で、気がついたら午前2時。
 8時から飲み始めたのですが、信じられないほど早く時間が経ち、二人とも唖然としました。
 「ウソだよね」
 「みんなで僕らを騙そうとしているにちがいない」
 「だってほとんど話してないし、カラオケだって2曲しか歌ってない」
 「そもそもニュートリノが光速より速いってあたりから騙され始めた気がする」
 などど、酔っ払い二人、フラフラとホテルにたどり着き、フロントで
 「で、ホントは何時?」と訊いたら、
 従業員のお兄さんはニッコリ微笑んで、
 「間違いなく2時ですよ」と言いました。
 それでも、世界が私たちを騙している、という確信は揺らがず、歯を磨いて寝ました。
 
 結果、声はかすれ、眠くてボーっとする朝を向かえました。
 思い返しても6時間も飲んで話した実感はまるでありません。実に不可思議な体験です。
 ホントにK社長はやってきたのでしょうか?
 私はまだ夢をみているのではないでしょうか?
 このブログは現実世界で書いているのでしょうか?
 おやすみなさい。 
posted by walker at 19:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年09月17日

人類は煩悩を克服できないのか?

 今日は遠野祭り。でも現場は出勤です。但し、午後からは雨の予報なので勝負は午前中です。後は無理せず帰ってくるよう指示しました。遠野祭りに休日を返上したのは、おそらく初めてです。
 さすがに電話はありません。
 加守田さんのアトリエの改築・整備をやっており、たった今、煙突部の養生をして帰ってきました。板金巻き工事を残していたのですが、雨が降りそうなので念の為、です。
 
 さて、ヒロコさんからのコメントを受けて、「ごく一部の大金持ちが自分らの都合の良い様に世の中を操作している」と書きました。このような主張を俗に「陰謀論」といい、良識派の皆様からバカにされています。
 確かに、全ての事象を陰謀論で片付けるあまりに偏った方々もおり、バカにされてもショウガナイと思います。
 一方、世界の富裕層上位5%が、世界の富の71%を手中にしている、という調査もあり、この5%の人間は、当然、計り知れない権力を持っているわけで、彼らはその権力を使って世の中を出来るだけ自分の都合の良い方向へ導こうと画策するだろうことも容易に想像できます。
 単純にいかないのは、その富裕層同士の中でも利害の対立があり、必ずしも各人が意図した方向に事が進むわけではないという点です。

 時々思うのですが、世の中って高度な政治的判断で物事が進んでいるように見えて、実は、もっと原始的なんではないでしょうか?
 「ジェノサイド」という小説を最近読んだのですが、明らかにブッシュ・ジュニアをモデルとした米国大統領が登場し、彼の政治判断を左右しているものはパパ・ブッシュという強権的な父親に対する幼年期の恐怖心・劣等感である、としています。
 2001年以降の世界的混乱が、実は1家庭の親子関係に起因している、という考えです。これは恐ろしい話です。

 人間というのは知性・理性・道徳心を持つ一方、エゴ、欲望(食欲・性欲)の虜でもあります。特に、権力者、リーダー、起業家といった人種は、欲望が人一倍強い連中ばかりです。
 はっきり言って世の中でがんばっている男の大部分は食欲と性欲の2大モチベーションで生きている、と言って過言ではありません。
 したがってこんな動機で生きてる連中が世の権力を握るのですから、良い世の中なんかできるわけがありません。だって食欲と性欲(しつこい!)で成り立っている世の中ですよ!これが人類の限界です。以前、議会制民主主義の限界について書きましたが、その上には、このような、絶対的な限界があります。

 小説「ジェノサイド」では、現存人類の限界点を見極め、進化をとげた次世代の種を登場させています。その新しい「種」は、煩悩(欲望)から完全に開放され、高い知性と理性(合理性)に従って行動を選択します。彼らのモチベーションは、種の存続にあります。その行動は、そのためにもっとも合理的な形から選択されます。
 今の世界情勢を見ていると、ほんとうにそのような新種が出現しても良い時期かな、と考えさせられます。いや、意外とその新種は、今、あなたのそばに居るのかもしれません。アセンションってそういうことだったりして・・・。
posted by walker at 12:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治・経済